天邪鬼

1話

あーもう、何だって言うのあのバカチンは

昨日のことを思い出して、頭が痛い。
あれが自分の弟だと思うと情けなくなってくるわ。

一人頭を掻き毟り大きなため息をついた。

「お疲れのようですね」
やけに意味深な笑みを浮かべ私に近づいてきたこの男。
こいつもある意味曲者だ。

「飛んでもない、絶好調よ」
目を細め、顎を少しだけ突きあげて言ってやった。
こいつに弱みを見せるなんてそんなことさせるもんかっていうの。

「本日の業務も無事に、こなせそうで何よりです」

何よ、その眼鏡フレームの真ん中をちょんってをあげる人差し指は。
似合いすぎてるから厄介ってやつだ。

「それで、今日のスケジュールは?」

ニヤリと薄気味悪い笑みを浮かべながら、胸ポケットの手帳を取り出すこいつ。
嫌味かと思うほど長い指で手帳を捲って、一日の流れを随分とまあ予定を入れてくれた事。
そんな手帳なんて意味の無いほど、頭の中にインプットされてるいるだろうその予定。

ほら、口は滑らかに動いている癖にその刺すような視線を向けて。
いつからだろう、こいつがこんなになったのは。
狭いこの部屋で、これまた嫌味なバリトンボイスが響いてきて。
頭がおかしくなりそうだった。

「専務、聞いていらっしゃいますか?」

「はい、勿論」
これ以上ないってほほ笑みをくれてやった。

窓際に置かれたデスクに座り、目の前の書類に目を通す。
判を押す前のチェックだ。
これだって、もうこいつはチェック済みだ。
もし、考えなくてはいけないような書類があったとしたら、隣に除けて有るはずで。
いくつかの重要書類の他は、記憶に残す程の事でもない。

後は曲がらないように気をつけて判を押すだけ。
それが私の毎朝の日課だった。

「高瀬、会社出るまであと何分ある?」
視線は書類に落としたまま。

「後20分程、小走りして頂けるなら後22分といったところでしょうか」
間髪入れずに応える所がまた小憎らしい。

「了解」
今日は真面目に返事をしてみた。

そして丁度きっかり20分。
私はこの監獄のようなこの部屋から脱出した。

私とていくら親族経営のこの会社に入ったからって、初めっからこんなとこにいた訳じゃない。加藤なんてありふれた名前、わざわざ自ら名乗らなきゃ会長の孫なんて知られる事もなく。階下にある広いロビーで、皆で和気あいあいといっても至って真面目にお仕事してたわよ。それが、何? クーデターだか何だか知らないけれど、余計な波風立てられちゃって、騒ぎが収まった時は良かったね、なんて呑気に言っていた私に突然振って沸いた移動命令。そう命令って言葉がぴったり。私は断るなんて選択肢は残っていなくって、こいつと監獄に入れられてしまった。
お陰で、昨日まで馬鹿言い合っていた連中は殆ど、私と目を合わせないし、こっちから声を掛けたって敬語で話すときたもんだ。変わらなかったのは同期の理沙だけだった。
廊下ですれ違う人が皆私に頭を垂れる。肩書きがあるから当たり前なのに。
嘗ての私の上司も同じ事、休憩室の前を通った時だって、顔が真顔になって敬礼みたいなお辞儀をするし。私は私なのに。でもじいちゃんの手前、辞める訳にはいかないと歯を食いしばって、乗り越えてきた。

「やっぱりお疲れのようですね」
げっ、顔に出てたかも。

こいつとも……
ふーっ。自然とため息が出てしまった。

「ねぇ、今日のお昼は予定入ってなかったわよね」
広すぎる車内、後部座席で足を組みかえながら、問う。

「はい、社に戻って仕出しの昼食になります」
助手席に座るこいつ、顔は見えないけれどまた清ました顔しているのだろうなとぼんやり外を眺めながら想像した。ふと、懐かしい光景が蘇った。まだ学生だったあの頃。

「今日マック食べたい」

珍しく一瞬、間が空いた。もう一度

「マックで食べる」
言いきってやった。

「解りました。では仕出しはキャンセルしておきます」
そう言った最後に『ふっ』と馬鹿にしたような笑いが聞こえたような。
すまし顔も嫌味だが、これもまた……
だけど最近食べていないあの味、違う、あの雰囲気を思い描くと、これから会うあのたぬき親父の長い講釈も聞き流せるってもんだ。少しは羽根を伸ばせるかと少し気分が浮上した。

「高瀬解ってるよね、専務も敬語も店に入ったら禁止だから」

「かしこまりました」

嫌味なやつだよ全く。


そして、訳の解らない会談を終え、今私は見知らぬ街のマックの2階。あいつが注文をしているのを待っている。ん〜久し振りだわこの感覚ー。
その時後ろの席に座っている女子高校生の会話が耳に入った。

「昨日ね、初めて、こう君が家に来たんだぁ」

「あっこの前の合コンでゲッとした?」

「そうじゃないよゲットされたんだよ」

何だか微笑ましい会話だなぁなんて私も遥か昔に思いを馳せていた。
ちょっとトリップしたようで、後ろの彼女たちの会話が進んでいた。

べっ別に盗み聞きしているわけじゃないわよ。
私の背中越しだから聞こえるんだから。
誰とも言わず言い訳してみる。

「すっごいよ、私初めて見たよ、あんなに大きいの」
(何の話してるんだ?)

「大きいって、どんくらい?」

「このくらいかなぁ」
(多分手で大きさを教えているのだろう、ちょっとばかし気になる)

「マジでー。私もそんなの見た事ないよ」
話を聞いている方の女子高生は信じられないを連発し始めた。

「そう、色も黒くて、テカテカしててさぁ。見てたら涎が出てきて、即行口に入れたら硬いんだよこれがまた。あんなの初めてだったよ」
(おいおい何の話をしているんだお前達は!)

「そんなに〜」
(っておい、これはここでする話しか? 何だかいらぬ妄想が……)

「いいよ、明日またこう君くるから言っておくよ、さちも味わってみたら嵌るよ」
(ますます意味不明だ)

「超楽しみだよ」
(一体こいつらは何の話しをしているんだろう)



「じゃあ、さぁ――」
こう君の彼女とやらがやたらと気になるその後の話を始めた時だった。

「お待たせ、春日」
私の前に置かれたトレー。
ここには似合わない程、スーツをびしっと着こなした、高瀬が現れた。
不覚にも一瞬見とれてしまった。懐かしい呼び方に不覚にも反応してしまう自分。

「お前どうした? やけに顔が赤いが」
それでもってまたあの嫌味な笑みだよ。

「気のせいです」
椅子の座った高瀬の視線が真直ぐに私に向かってくる。

思わず視線をそらしてしまった。
そこで初めて視界に入った女子高生。
あっ、そうだ話の続き!

そう思ったのだけど、残念な事にもう違う話をし始めていて。
やっぱりあれよね。黒くって……。
今時の高校生って解らないわ。
未知なる生物ってやつね。
背中の彼女達を想像した