プライド

プライド


真紅のドレスの裾を悪戯に翻し、今にも折れそうな高いハイヒールを優雅にそして堂々と踏み出していく。
日本人離れしたスレンダーな身体。
ターンをする時にちらっと見える長いうなじ。
絶妙な間を取りながら正面を向いた時の妖艶な笑み。


いつの間にか俺は彼女を被写体としてみている事に気がついた。
持ってもいないカメラを持っているかのように、ファインダーをのぞいたつもりで構図をとり、心の中で何度もシャッターを押していた。
音響もスポットライトも他のモデルと変わりが無いはずなのに、何十人ものモデルが行き来するそのランウェイで彼女の存在感は圧倒的だった。



「太郎ちゃん、今度の土曜日来てくれるよね」
「あぁ」


 半年前から付き合い始めたモデルの佐奈。
モデルといっても一流には程遠い、人数合わせで呼ばれるようなそんな位置。
その佐奈と業界のパーティの窓際で出会った。カメラマンという職業に惹かれたのだろう、いつの間にかに肌を合わせるようになり、今に至る。
カメラマンと言っても俺も彼女と一緒。カメラを構える事も今では殆どなくカメラマンとは名ばかりだ。雑用がメインと解ると佐奈は落胆の顔を隠すことなくため息を吐いたのだが、どういう訳だか俺から離れて行く事は無かった。
付き合うといっても、お互い底辺の俺達には出掛ける金などなく慰め合うように身体を重ねあう、只それだけ。
連絡を取って都合がよければどちらかの部屋に足を向ける。惰性の関係というのがしっくりくるのかもしれない。
だが淋しい者同士それなりに上手くやっていたような気がする。

そんな佐奈が久し振りに、いや、正確に言うと初めての大舞台が決まったのだ。デザイナーの新人発掘を兼ねたファッションショー。決まっていた事務所の先輩が、突然の交通事故で足を骨折してしまい、急遽体系の似た佐奈に白羽の矢が立ったという。面倒くさかったが、あんまりにもはしゃぐ佐奈の顔を見ていたら面と向かって断る事なんて出来なかった。適当に返事をして、すっぽかすつもりでいたにも関わらず、チケットを渡されて引きずられるように俺はその会場へと足を運んでいた。
総勢20人のデザイナーが参加するとあって、新人とはいえ名の知れている者もいる、雑用ばかりと言ってもカメラマンの端くれ、幾人かの名前は頭の片隅にインプットされている将来の大物候補だ。会場内に足を踏み入れるとまず目に飛び込んできたのは大きなホールの真ん中に迫り出すランウェイ。そして、クラッシックのコンサートも開かれるこの会場の上質なスピーカーからは最大音量のリズミカルな音楽。真上から、横から正面から当るスポットライト。佐奈が興奮するのも訳ないかと、花道に群がるカメラマン達を見ながら納得をする。俺にはもう縁遠いところだ。会場の隅に腰を下ろしかろうじて目をあける。隅とはいえ俺には眩しすぎる場所だった。

そのうちに佐奈がステージに現れた、遠目でも分かる緊張して強張った顔。それじゃ折角の衣装が台無しだよ。そう思ったのも束の間だった。
意を決したのか一歩踏み出してからは佐奈の表情が一気に変わった。柔らかなほほ笑みを浮かべ、楽しそうにランウェイを闊歩する姿は、やっぱりモデルなんだなと思わずにはいられなかった。佐奈の出番も終わり、かろうじて開けていた目を瞑ろうとした時だった。彼女を見てしまったのは。

ショーが終わると裏口の壁に凭れて佐奈を待っていた。暫くして息を切らせながらやってきた佐奈。

「お疲れ、良かったよ」
 そう声を掛けると、まだ興奮しているのだろう上気した顔で
「ありがと」
 と笑みを見せる。けれど何だか浮かなそうな顔。
「どうした? 疲れたか?」
 佐奈にこんな優しい声を掛けたのは何時以来だろう声を掛けながらふと考えた。
「疲れてはないの、それでね……折角太郎ちゃんがご馳走してくれるって言ったのに、私打ち上げに誘ってくれてね……」
 尻つぼみの申し訳なさそうな声。

「気にするなって、チャンスじゃないか。名前と顔じゃんじゃん売って来いって」
 素直な気持ちとは言い難かった。ステップアップする佐奈に何も変わらない俺。嫉妬という言葉が頭を過る。

「ごめんね、今晩遅くなっても絶対太郎ちゃん家に行くから」
「おう」

 俺の返事を聞いて振り返った佐奈の先に、サングラスを掛けた彼女がいた。
ステージにいなくても感じる凄いオーラ。佐奈は踏み出した足を止め、背筋を伸ばして声を掛けた。

「お疲れ様です、ミチルさん」
 緊張してますって全身で現わしている。
「お疲れ様、良かったわよ」
 口ではそう言うが隠れた目はそうは思っていないんじゃないか? そもそも佐奈の事を認識しているのかどうだか。
「ありがとうございます。ミチルさんにそう言って貰えるだけで私幸せです」
 俺に口にした「ありがとう」より数段嬉しそうな「ありがとう」に聞こえた。

「そう、あら彼氏?」
 俺を見てフッと笑ったのは気のせいではないだろう。

「はい、彼カメラマンなんです。太郎ちゃん、こちら事務所の先輩のミチルさん。みんなの憧れの人だよ」
 俺は軽く会釈をした。

「打ち上げ行く人、集合掛ってたわよ」
 ミチルがそう言うと、慌ててお辞儀をして佐奈は裏口へと駆けていった。残された俺にミチルは視線を這わす、そうそれは値踏みしているように。

「さっきの彼女の事知らないでしょ」
 サングラスの下の目を見て見たかった。

「あら、案外馬鹿じゃないのかもね、カメラマンって言ってたけれど、いつかここまで登ってこれるといいわね」
 物凄い高飛車の物言い。

「是非」
 俺がそう言うと、ミチルは片手を上げて歩き始めた。


強がってみたが、本当はドキドキしていた。同じ人間でもこうも違うのだろうか。
――いつしか同じステージに――そんな事ありっこない。解りきってはいるが、佐奈の事などすっかり忘れ、頭の中はミチルでいっぱいだった。
去っていくミチルの背中から目を離せなかった。すると急にミチルが振り返り

「名刺」
と一言告げられた。
名刺? 何を言っているのか意味が解らず眉間に皺が寄る。それは考える時の俺の癖。

「やっぱりあんた、いいかも。私に連絡先聞かれて眉間に皺寄せる人初めてみたわ」
 そういって、作り物のような右手を出された。自分の名刺を要求されていたのか。あまり深くも考えずに、財布からプライベートの名刺を取り出すとミチルに渡した。

「幸太郎君ね」
 渡した名刺を指の間に挟んでヒラヒラさせると今度は本当に去っていったようだった。
何だったんだ一体。夢じゃないよな。
さっきまでステージ上で脚光を浴びていた彼女を言葉を交わして、名刺まで渡してしまった。
ミチルという名前がインプットされた瞬間だった。


ぼーっとしながら、家路に着く。ステージ上の妖艶さは無かったものの他の人とは明らかに違うそのオーラ。
もしかしたら電話掛ってくるかも。そう思っていたのだが、そんな事はあるはずもなく。
そして、晩に来ると言っていた佐奈からもなんの連絡も無かった。


そして、それから数か月。あのショーを境に俺達の関係は徐々に離れていった。
佐奈は少しづつだが仕事が増え、アパートに来る事も電話もメールでさえも最近では思い出せない程だ。
始まりがあっさりしていたから別れも比例するのだろうか。自然消滅なんて聞こえはいいが、要するに俺は切られたのだ。


この業界にいるといろいろと噂話はつきものだ。どうでもいい話ばかりの中に実力者という名の浮世話に慣れ親しんだ彼女の名前を聞いた時、やっぱりなと思った。
その晩、かろうじて残っていた彼女の荷物を段ボールに詰めた。メールで一言
玄関に置いたから処分してくれと送信。
返事は返ってこなかったが、翌日、雑用という名の仕事を終え、何も考えずにアパートの鍵を開けると、置いた段ボールが無くなっていた。
変わりに新聞受けには、ポツンと一つ鍵が転がっていた。
鍵を手に取り玄関で靴を放り投げると走馬灯のように佐奈との日々が駆け巡った。結局、何処に行った事も無かった。
いつも部屋でゴロゴロするだけで、だけど案外居心地は良かったのかも知れない。 いなくなってからじゃ遅いのだが、彼女をもっと構ってやっていたら、まだここに居たのかも知れないなと視線の先の少しだけすっきりとした洗面台を見てそう思った。


佐奈と別れてからというもの全ての運から見放されてしまったかのよう、僅かでもあった仕事もこなくなり、所属していた会社にも見切りをつけ、今はゴシップ専門のフリーのカメラマンだ。
あれから数年の時が経ちモデルの世界も世代交代をした。ミチルの姿をみる機会もぐっと減っていた。
女王様として君臨していた彼女の時代は終わったのだ。
モデルの世界もただ若いだけの何のオーラも纏っていない女がちやほやされている。
今のこの状態を彼女は、ミチルはどう見ているのだろうか? あれから、俺とミチルの接点は全くなかった。
勿論ミチルからの電話は一度も掛ってきた事は無い。結局あれも只の気まぐれだったのだろう。
メモ帳にもならない俺の名刺。きっとあの後直ぐにゴミ箱行きだったに違いない。
もしかしたらと思ったのはせいぜい3日。期待する方が馬鹿というものだ。



そんな昔の事を思い出した数日後、年末も押し迫ったその年一番の寒さを記録した夜だった。
寒さを凌ぐには頼りなさすぎの薄いコートの襟を立て、いつものようにとある芸能人を追っていた時だった。
張っていた料亭の前で一台の車が止まった。いかにも高級車の後部座席から、世間を賑わせている大物政治家が降り立った。

街路樹の隙間から夢中でファインダーを覗く。相手によれば、今追っている俳優の浮気現場なんかよりずっといいスクープになる。
しかし、連れは一向に姿を現さなかった。
帰りを狙うか。
一度カメラを下ろしてフィルムを取り換える。久し振りのスクープかもしれないと思うと心が弾んだ。
手は悴み身体は震えるが、俺はじっとその瞬間を待っていた。足もとにタバコの吸い殻を数本落とした時に、料亭の入り口がざわついた。

さっきと同じように、カメラを構えるとその瞬間を逃さないようにファインダーに目を押しつけて、シャッターを切り続けた。


そこには、久し振りに間近で見るミチルの姿があった。


俺は、雑誌社にその記事を持ち込む気にはならなかった。

あの政治家が去った後、俺はカメラを手に固まっていた。
そう、隠れていたはずの俺にミチルは射るような視線を向けたのだ。
手元にある写真を机に並べて眺めてみる。自分で言うのも何だが良く撮れている。

脂ぎった親父との熱い抱擁、しっかりと腰にまわされた手、極めつけは車に乗り込む寸前のキス。
さしずめ見出しは『嘗てのトップモデル、娼婦に転落』そんなところだろう。

大物政治家のスキャンダルが撮れたにも関わらず、どうしてそれを持ち込む事を躊躇してしまうのか。

それは彼女のあの眼を見てしまったから。

俺が撮りたいと思っていたのはこんなミチルじゃないからだ。

初めてミチルを見た時の事は鮮明に記憶している。
これがトップの姿なのだと否応なく思い知らせるその存在感、そうそれは衝撃という言葉が相応しい。
彼女を超えるモデルには後にも先にもお目にかかった事がない。


プライド――


俺にはとうの昔に無くなってしまったそれを、彼女は今でも持ち得ているのだろうか。

華やかな業界に身を置いているミチルと、何時まで経ってもウダツの上がらなかった俺と比べられたくはないか。
きっと、売れるだろうその写真を引き出しにしまってから、ひと月経ったある夜、最近めっきり用を足さなくなったプライベートの携帯が震えだした。
画面には公衆電話の文字。訝しげに耳に当てると、澄ました声が飛び込んできた。


「あの写真、持ち込まなかったの?」


 そんな声と共に聞こえてきた含みのある笑い声、ミチルだった。
何故ミチルと解ったのか俺自身不思議だったのだがそう確信した。

「どうして?」思わぬ彼女からの電話に驚きを隠せず上ずった声になってしまう。
 丁度、本降りになってきた雨が窓を叩き始めた。少しだけ開けた窓から雨水が吹きこんでくるのを人ごとのように目で追いながら彼女の言葉を待っていた。

「あんた、隠れるの下手過ぎよ。スクープ撮りたいのならもっと上手に隠れなくちゃバレバレ。あれじゃいつまで経ってもスクープなんて撮れっこないわ。折角いいところ撮らせてあげたっていうのに」
 俺をからかっているのだろうか? 
「何が言いたいんだ」
 彼女がなぜ俺に電話を掛けてきたのかが解らなかった。彼女に名刺を渡したのは遥か昔、彼女がその名刺を持っている事だって奇跡なのだから。
「そんなに怒らないでよ。ちょっと部屋を片付けていたらたまたま見つけたのよ、この名刺を。これも何かの縁かなと思って」
 彼女はそこで一旦言葉を区切ると、衝撃的な言葉を放った。


「もっと凄いスクープ撮らせてあげるよ」


 表舞台には出なくなったとはいえ、あの政治家とも繋がっているミチル。
その言葉に戸惑いを感じながらも誘いに乗ってしまった。もしかしたら、我儘モデルのちょっとした気まぐれかもしれない。
当日になったらきっとすっぽかされるのかもしれない。だけど何となく嘘ではないような感じもしていた。

律儀にも指定された日の前の晩に再び連絡をくれたミチル。
都内でも有数なホテルの名をあげエントランスに近いラウンジの窓際で待つ事。
場に浮かないようにスーツを着て来る事。
良い写真を撮って欲しいから気を逸らさないように時間20分前には携帯の電源を切る事。
それらを念押しされた。宜しくねと言い残し、何を撮るのか知らされぬまま一方的に電話が切られた。
凄い事になっているのではないか。
半信半疑ながらもカビ臭い押入れの中から一張羅のスーツを引っ張り出し、ハンガーに吊るす。
深い皺はいくらかましになるだろうか。一度も足を踏み入れた事がない高級ホテルを思い描き、不安が襲う。
果たして俺に撮れるのだろうかと?

カメラマンを夢見て上京してきた日を思い出した。反対する両親を説き伏せる事なく家を飛び出したあの頃。
明日、俺は何かが変わるんだ。そう思うと中々寝付く事は出来なかった。


指定時間は夜十時、スーツの皺はある程度は落ち着いたもののまだ目立つ。
直ぐに椅子に座れば問題ないか? そう思いながら袖を通した。
一日掛けて点検したカメラを鞄に入れて時間を持てあました俺は夕方にはアパートを出ていた。
どうにもこうにも、落ち着かなくて部屋にはいられなかったというのが本音だろう。
ホテルに行く道すがらショーウィンドーに写る自分の野暮ったい顔。これじゃ、自らが怪しい人ですと言っているようなもの。
一番先に目に入った床屋に足を踏み入れた。一時間後こざっぱりした顔が大きな鏡に写ったのをみて、まだみれるかもしれないと安堵する。
床屋とはいえ都会の真ん中にある店はいつもの床屋の三倍の料金、痛い出費だが仕方が無い、今日の写真の事を考えれば当然の必要経費だろう。

それから、書店に入って目ぼしい週刊誌を読み漁った。最近は大きなゴシップも事件も無くて至って平和なそれらの記事。
噂でしかない熟年芸能人の離婚秒読みかとの記事やら、若手の芸能人の密会と称した記事など目を引く記事は載っていなかった。
記事の最後に知ったカメラマンの名前を見つけきっとこいつらもこんな写真を撮るためにこの業界へと入った訳じゃないのになと虚しくもなった。
一通りの雑誌に目を通して書店を後にした。

行き交う人は皆、無言で能面のような顔をしている。生きているのがつまらないのは俺だけじゃないんだと勝手に思いながら足を進めた。
目的地のホテルに到着するとまだ一時間の余裕があった。
言われたように入り口に近いラウンジの椅子に座り、目が飛び出る程の金額のコーヒーを頼んだ。
これで写真が売れなかったらどうしてくれよう、ミチルに請求するか? 
普段の味わった事の無いコーヒーは置かれた瞬間にどこか品の良い匂いがした。
一気に飲み干したいところだが、先程の散髪で数杯頼む余裕は財布の余力が無さ過ぎた。時間を考えちびりと口にする。
指定の時間までと新聞を手に取るが緊張が増してきて文字を追う事は出来なかった。

何度も時間を確認して、周りの音に耳を澄ます。
そして約束の時間三十分前、少し早いが言われた通りに携帯の電源を落として、用をなさなかった新聞を閉じた。

ミチルは何処からやってくるのだろう。エレベーターか、それとも正面からか? 幸いこの位置からは両方を見渡せた。カメラを入れたバックを膝に抱え、俺は神経を集中させる。
後五分、後三分、そして、もうその時間という時にロビーにいた若い女が窓の外を見て指を指すのが見えた。

外? ミチルは外にいるのか? 首をくるりと後ろに捻ると窓の外には雪のようにヒラヒラと舞う何か。
じっと凝視するとそれは無数の薔薇の花ビラだった。
引っかかりを感じたがもう時間だ、この一瞬にミチルがロビーにいたらどうするんだ、慌ててカメラを取り出したその時。


ドスンという衝撃音。


窓を挟んだ俺の直ぐ横には真っ白なドレスに身を包んだ女が横たえていた。


一斉にロビーに響き渡る悲鳴。
悲鳴が聞こえるその瞬間に微かに捉えた女の唇。
俺はカメラを持ったままロビーを駆けだした。
無数に広がった真っ赤なバラの花びらの上に真っ白いドレスをきた彼女


それは紛れもないミチルだった。


「誰かー、早く、救急車ー」ありったけの声で叫んだ。
じわじわとミチルの頭からはアスファルトに血が滲みでていた。
あっと言う間に野次馬が群がってくる。
そして、みな徐に携帯電話を取り出してあろうことか写真を取り出したのだ。
信じられないものを見た感じがした。何でだ。何でなんだ?  綺麗に化粧してあったはずの顔は半分崩れている、手も足も有らぬ方向に向いている。こんな姿をお前達は撮るのか? そう思いながらも自分の手には彼らよりもりっぱなカメラを握っている事に気がついた。そして、最後の彼女の声がこだました。


「綺麗に撮ってね。失敗したら許さないから。宜しくね」


 目を瞑り深く息を吸い込むと人を押しのけシャッターを切り始めた。既に顔は血の気が引いていて、真っ白い肌が更に際だつ、そして何より唇に引かれた真っ赤な、違う、もっと深い、そうあの日と同じ真紅の口紅が薔薇の花とミチルの血と相まって何より彼女を際立たせていた。夢中でシャッターを切っているうちに誰かに腕を強い力で引っ張られた。


「不謹慎だぞ」
 大声で怒鳴られた。目の前にいる男が目を吊り上げ、拳を大きく振り上げた。
殴られるそう思った時に咄嗟にカメラを抱えた。晒された俺の顔に衝撃を覚悟し目を瞑ったのだが、何時まで経っても俺の顔に衝撃が来る事は無かった。薄く目を開けると、目の前の男は既に拳を下ろしていた。


「なぜ、泣きながら写真を撮るんだ。そこまで泣きながら何で写真を撮りたいんだ。そんなに金が欲しいのか、人が死んでいるんだぞ」
 男の声は周りで携帯を構えていた人にも充分に聞こえたようで、シャッターをきる電子音が一瞬止んだ。

「別に金の為に写している訳じゃないんだ。彼女が、こんな携帯で写した写真で世に出るならば、俺が綺麗な写真を撮ってやらなくちゃだからだ。最後が素人が撮った携帯のボケた写真じゃ、彼女は納得しないだろうから」
 頼まれたからじゃない。
それは忘れてしまったと思っていた俺のプライドでもあったのだと思う。
誰よりも綺麗に撮ってやるから。
そう告げると、俺はミチルに向き直し、シャッターを切った。そして

「さよなら、ミチルさん」

 そう呟いて、俺はその場を後にした。時間にして数分の出来事。


俺が立ち去った後の野次馬はどんどん膨れ上がって、ちらっと後ろを振り向くと間を開けずたかれるフラッシュの明り。
きっと今頃は写真を撮った誰かが、マスコミにメールで流しているだろう。
雑誌だけは。一瞬の画像で流れるテレビでは仕方がないが紙媒体の雑誌には流れ消えゆく事なく、手元に有り続ける限り、晒されてしまうのだ。
本当にこれでいいのか? 良心との呵責に苛まれながらも、俺は段々と小走りになっていた。
そうだ暗室だ……一人だけ付き合っている嘗ての仲間がいた。知り合ったのは、上京して直ぐ、お互いまだ夢を見ていた頃。
年も近く、くさい熱い思いを幾晩も語り合ったそいつは、早々に夢を追う事を諦め、モデルの卵と結婚した。
今ではこの都会の片隅で小さな写真館をやっている。駅に着き電車を待つ間、俺はポケットから携帯を取り出し、電源を入れた。
そして光るメッセージ有りの文字。


激しく波打った鼓動。誰からか予想がついていた俺はホームにある売店に身を預けそっと携帯を耳にあてた。


――もしもし、これを聞いてるって事はもう終わったのね。驚いたでしょ。どう綺麗に撮れた? ビビってシャッター切れなかったなんて言わないでよね。撮り直しは出来ないのだから。遠慮なんてしなくていいから。どんどんその写真売ってくれて構わないから。そして、写真を撮り続けてね。ごめんね。
そして、ありがとう。さよなら――


メッセージを消去しますか? そう機械的な声が流れ終わっても俺は携帯を耳から離さす事は出来なかった。
優しく響くその声は今までメディアを通じたミチルのどの声とも違った。これが本当の彼女なのかもしれない。
再び涙が零れるのを頬に感じ、カメラを抱きかかえる手に力が籠った。
クッと歯を食いしばりホームに滑り混んで来た電車に乗った。


深夜の訪問なのにも関わらず、嘗ての仲間である周平は、快く出迎えてくれた。暗室で格闘しおえ、出てきた俺に
「どうだ、良く撮れたか?」
 と聞く周平。暗室に入る前にかいつまんで話はしてあった。俺の顔はきっといい顔をしていたのだろう。俺の答えを聞く前に大きく頷いていた。
出来あがったばかりの写真を一枚見せると。
「やっぱ、お前才能あるよ。あの編集長がお前を目の敵にしてたのが解る、お前とり会わなかったけれど、あれはやっぱり嫉妬だな」
 天井を見上げる周平は、昔のあの暗室を思い描いているのだろう。
「お互い様な」
 視界に入る壁に飾られた数々の写真は、周平の腕を認めざるおえない。
きっとこいつだって、後数年この業界にいたら……これは言ってはいけない事だ。壁の一番隅にひっそりと飾られている奥さんと子供の写真がそれを物語っている。
「出来たのなら、急いだ方が良いんじゃねえか?」
 周平のその言葉に頷いた。恥を忍んで借りた札を握りしめて俺はタクシーに飛び乗る。
俺の分まで頑張れよ。それは周平の結婚が決まった時に言われた言葉。写真館の名前の入った封筒を握りしめて、何度も心の中で礼を言った。



そして、新聞社と雑誌社を回った。
雑誌社は両手を上げ写真を受け取り、新聞社は誰が撮った写メールから写真を入れ替えてくれた。
翌日から俺の撮った最期のミチルの姿があちらこちらに写しだされていた。
批判的な中傷も度々受けたが、意外にも綺麗だったとの好評価も貰った。

中でも後日、忘れたカメラバックを取りにいったホテルのフロントの受け付けに
「ミチルさんも喜んでると思いますよ」と言われた時は涙腺が緩みそうだった。本当は、そんなゴシップ記事や雑誌自体を毛嫌いしていたと言うのだが、あの時の俺の言葉を聞いていたらしい。彼女が納得しないよと言ったあの言葉を。
それから、ミチルの写真が切欠で仕事が入るようになりカメラマンとしての地位も上がった。
ゴシップ記事を取る事もなくなり、今ではスケジュール調整も大変な程になっている。
彼女が俺にもたらせたものは一体なんだったのだろう。


富? 名声?


今でも、はっきりと思い出せる。
彼女が足を踏み出す度に会場中から洩れる羨望のため息。
他のどんなものも色あせてしまう真紅のドレスを纏った彼女を。
いつしか彼女を撮ってみたい、心の奥底にあった願望。皮肉にも念願叶ったのは生を失った彼女だったなんて。
今でも、空に向かって問いかけている。
「納得したか?」と。
いつしか
「まぁまぁね」
とツンと澄ました声でそう掛ってくるような気がして。