電話の向こう
5ヶ月と6日私は電話の音を聞いていない。
あの日、あの電話を受けた日から。
結婚して11年。子供はいなかったが、それなりに夫婦仲良く暮らしていた。
凄く幸せとも思っていなかったが、不幸とは思ったこともない。
ケンカもしたことはあったが長引いたことは一度だってなかった。
私の一方的な我侭だって彼は許してくれていたのだ。
休みの日は買い物に出掛けたり、映画を観たり、長期の休みには必ず旅行に出かけていた。
友人達も結婚していたが、殆どの家庭には子供がいて、初めはお祝いに行ったり遊びにいったり付き合いもあったのだが、私達に子供がいない事は、本人達よりも周りの友人達の方が気にしていたらしく、結婚して5年を過ぎた辺りからどちらともなく連絡が途絶えていた。
専業主婦の私は、毎日掃除をし、洗濯をし、料理を作る。その繰り返し。
今思えば、一心に夫のことを待っていたのかもしれない。
そう、自分で思うより夫を愛していたのだと。
いつも夫は帰るコールをしてくれた。
「もしもし、俺。これから帰るよ。夕飯はなんだい?」
必ず「もしもし、俺。」こんな風に話し出す。
あの日もそうだった。
「もしもし、俺。これから帰るよ。今日の風は凄いって。早く家にかえりたい。お前が作った料理で暖まりたいよ。」
夫はそういった。その電話になんと返したかは全く記憶にない。
本当なら30分程で帰ってくるのに、その日夫はいつまで待っても帰って来なかった。
そして、3時間位たった後不意に電話が鳴った。
「もしもし、今井さんのお宅ですか?」
私が最後にとった電話は、警察からだった。
それからの私はどうしたのか、全く記憶がないのだ。
気がついたら、病院にいた。自分で電話したのかさえ解らないが、義父、義母がいて、自分の両親がいて。
そしてそこに、もう二度と動かない夫がいた。
交通事故だった。その後は義父が手続きをしてくれたと母親から聞いた。
その後のお通やもお葬式も放心状態の私が喪主を務められるわけもなく、喪服を着て人形のように座っていたらしい。
自分の意識がはっきりしてきたのは全てを終え自宅の玄関へ戻って来ただったと思う。
自宅に帰ってまず始めにした事、電話のコードを抜いたことだった。
誰の声も聞きたくない。電話から聞こえるあの優しい声はもう聞けないのだから。
誰にも逢いたくない。
私が逢いたいのは夫、只一人だから。
我侭で甘えん坊。30過ぎた女にどうかと思うが、これは夫の口癖だ。本当、その通りだった。
彼がいないのに、何事もなかったかのように、そこに日常があることが不思議でならなかった。
役所関係にも郵便局にも手続きをしたのに、ポストには未だに夫宛の郵便物が届く、メール便だった。
以前は考えた事もなかった、このメール便が私を苦しめる。読む主のいないこのメール便が。
私を心配し、始めの頃こそ2日置きに着てくれた母がポストの中身も処分してくれていたが、ひと月経つとそうもいかない。
止める手段の解らない私は夫宛の郵便物をみながら、泣いていた。
11年間一緒に暮らしたこの部屋には何処を見渡しても夫を思い起こさせるものばかり、ソファもテーブルも食器戸棚もテレビだって2人で見て買った物。
休みの日、ゆっくり起きだして座っていたソファ。
いつも左端に座って足を組むの。左手に新聞を持って、掃除機をかける私に邪険されて仕方なく足を上げる夫。右側は私がいつでも座れるように空けてくれていたのよね。
食事をするテーブル、夫が座る椅子、夫婦茶碗やそろいの箸。
皆ここに在るというのに。
目を瞑れば直ぐ其処に貴方が見えるのに。
この家にある夫の物は何一つ動かしていない。義父母が憔悴しきった私を心配してくれたのだろう、夫の物をひきとろうか?と言ってくれたが私は首を振った。
夫の物がこの家から無くなってしまうと、夫の存在そのものが無かったように思えて怖かったから。
何度日が昇り、また落ちていっても私の悲しみは減ることは無かった。
書斎の机の上にある書きかけのメモ。癖のあるその字をみながらまた涙する。
自分でも驚いたのはニュースだった。何ヶ月もたった今でさえ、名も知らぬ誰かが交通事故で亡くなったというのを聞くと涙が零れるのだ。
この一瞬さえなかったら、この人もあの人もみんな明日があったのにと。
そんな毎日を送っていたある日、電力会社の人が電気の点検にやってきた。
ここ最近母親以外の人が家に入った事は無かった。部屋の奥にあるブレーカーの点検を終えた後、その人は帰っていったのだが。
その数分後に電話が鳴った。
点検をした彼が親切にも外れている電話線を繋いでいったのだ。
久し振りに聞く電話の音に恐怖が蘇えって身体が震えた。その場でしゃがみこみ耳を塞ぐ。
何度かコールした後、留守番電話に切り返った。電話の向こうから聞えてきたのは男の声だった。
「もしもし、俺。いないの?もしもしー。」
それは私が留守の時に入れる彼の言葉と同じだった。
夫とは違う若い男の声だったが、良く聞いていたそのフレーズに、恐る恐る震える手を持ち上げて、私は受話器をあげた。
「もしもし」
やっとの思いで声をだす。
「もしもし、俺だよ。良かった、いないかと思ったよ。」電話の男はそういった。
「もしもし、裕之さんなの?」ありっこないって思うけど。すがる思いで名前をだした。
「そうだよ、裕之だよ。大変なんだ、俺事故起こしちゃって、」男はそう言うと泣きはじめた。
声はもうしゃくりあげ何をいってるのかさえわからない。
でもその言葉を聞いて私も一緒に泣き始めてしまった。
私の泣き声に戸惑ったのか急に男のしゃくり声が小さくなった。
「切らないで、切らないで少し私と話をして、お願いだから・・・」
私の方が泣きすがってしまった。受話器の向こうは本当に戸惑っているのが良く解った。
もう一度
「お願い、切らないで。私と話をして欲しい。うううん、話をしなくてもいい、聞いてきれるだけでいいの、お願い。」するといつの間に泣き止んだ受話器の向こうから
「大丈夫、聞くから話してみて。」優しい声がした。
「ありがとう、ありがとう。」何から話したらいいのか解らなかったが、あの夜、最後に電話をもらった日から、電話が怖くなり電話線を抜いていたこと。そして夫に対する私の思いをゆっくりと話だした。
途中、”うん、うん”と相槌を打ちながら彼は口を挟むことなく、私の話を聞いてくれた。
最後に私は、夫に今まで一緒にいてくれてという意味と話をきいてくれた彼に対して心を込めて
「ありがとう。」
と言い話終えた。
電話の向こうではさっきのしゃくりあげたような声でなく、静かにすすり泣く声が聞こえた。そして、彼の声が聞こえた。
「本当に、申し訳ないと思っている。許される事じゃないと思っている」と彼は私告白した。
「もう気がついていると思うけど、俺は、あんたが言った名前を言い。世に言う振り込め詐欺をしようとした。俺、俺、今まで何をやっても上手くいかなくて、バイト初めても直ぐに嫌になって長続きしないし、先輩に誘われてこんな事に首を突っ込んでしまった。人を好きになったり、誰かを失ったこともないから、俺にはあんたの気持ちは解らないけど。これはやっちゃいけないことだっていうのはわかったよ。この電話を最後にもうやらねえ。ねえあんた、またこの電話線切っちゃうのか?」彼が聞いてきた。
「多分、そうしようと思う。」
多分じゃない。きっと私はこの電話を切った後、電話線を外すだろう。
「お願いがあるんだ。俺、これから今までの事反省して罪を償ってこようと思おう。その後、出来る事なら普通に働きたいと思う。だから、その時報告させてもらえないか?1年先かもしれない、2年先になるかもしれない、だけどそれまでこの電話線繋いでおいて貰えないだろうか?」正直彼の言葉には応えられない。いつまでここにいられるかもわからないのだから。
「ごめん、約束できない。」
「そっか、じゃあ、違う約束してくれないかな?」彼は言った。
「違う約束?」私が問うと
「死なないで。」
死なないでと彼が言った。その言葉はきっと誰もが私に言いたかった言葉だと思う。親でさえ口にしなかった言葉。きっと言ってしまったら現実にしてしまいそうに思ったのかもしれない。
顔も知らない、彼だから言えた言葉だと思う。
実際私はそのつもりだった。私にはお葬式の記憶が一切ない。だから一周忌できちんと彼を見送り、一度お別れをして、私も彼の元へ旅立とうと決めていたのだった。
もう一度受話器から
「お願い、死なないで」と声がした。
「わからないよ。あなたと話せてよかったとは思う。でもこの先私どうしたらいいのか。あの人がいないここにいても意味がないの!」夫を想う私の激しい動揺からまた涙が零れた。
「意味はあったよ、少なくても俺は人生を変えるきっかけをもらったと思う。俺、あんたが電話にでなかったら、今頃、また違う人に電話をかけて、明日も明後日もその次の日もずっと、ずっとこんな生活してかもしれないから、あんたは俺にとって人生の恩人なのかもしれない。でもあんたがいなくなってしまったら、俺きっときっとあんたと同じように悲しむと思う。今日話したばっかりで、会った事もないけど、俺はあんたに報告がしたいんだ。立ち直ったよ。頑張ってるよって。」彼の声も最後の方は泣き声だった。
それから暫く無言が続いた。そして
「もう携帯の電池がないんだ。お願いだ。返事を聞かせて欲しい。」
まだ彼は泣いているようだった。私は意を決した。
「解ったわ、あなたが立ち直って電話が鳴るまでは待ってるから。早く連絡頂戴ね。」
そこまでいうと電話が切れた。
私の声は聞こえただろうか?
こんな最悪な状態の私が彼を救えるのだろうか?
私が……
疑問が渦巻く。でも信じてみようと思った。
”死なないで”と言ってくれた彼を。
正直、明日はまた落ち込んで夫を思って泣くかもしれない。でも今は彼に
私も頑張ってるよ。
と報告したい。そう思った。