古びた背表紙


「これは……」

久し振りに入ったその部屋。
本棚の端に並んだ一冊の本を手に取った。
大好きで何度も読み返したその本。
ここに置きっぱなしだったんだ。

窓際に椅子を手繰り寄せ、そっと表紙を開いた。
最後に読んだのは、ずっと前の事なのに、まるでつい最近読んだかのように頭に浮かぶフレーズ。
結末は知っているのに、文字を追うだけでどきどきしている私がいた。
何だか、あの頃の自分に戻ったような錯覚に陥った。

もうすぐだ……
それは仲の良かった恋人が、すれ違いから意地になって別れてしまうシーン。
私は躊躇しながらも、切ない気持をそのままにページを捲った。

その時
はらりと落ちた一枚の写真。
床に落ちたその写真は裏返しだったけれど、私は何の写真だか直ぐに分かってしまった。
全部捨てたと思ったのに……

私はその写真を拾う事なく、ページを捲る。
目の前の文字を追いながらも、心は他のところへ飛んでいた。

あの日から読んでいないのかもしれない。
主人公を自分に重ねてしまってからは辛すぎて読む事が出来なかったこの本。
その本にまさか、あの写真を挟んでいたなんて。

私の人生の中で一番幸せだったあの頃。
そして、一番思い出したくない思い出。

封印していた想いが、身体の奥底から沸いてくるようだ。
ふつふつふつと。

あの頃の怒りは消えたけれど、切ない思いはそのままに。
忘れていたと思っていたけれど、ちゃんと私の中で眠りながらも残っていたのだと気づかされた。

「おかあさーん、もうすぐ時間だよ」
娘の理沙の声。

私は、椅子から腰を下ろすと前かがみになって写真を拾った。
写真には、理沙と同じ年の私とあいつ。そのまま、本に挟み元の位置にその本を置いた。


「あぁあ、黒い服は埃が目立って嫌だね」
母さんが私の袖についた埃を払ってくれた。
すっかり物置部屋になった嘗ての私の部屋は、両親でさえ入る事はあまりないのだろう。
それも仕方の無い事だ。

「親御さんに宜しく言っといてね」
母は絞り出すようにその声を出した。

「はい、いってきます」
普段履く事の無くなった、ヒールのある皮靴につま先を入れると少し背筋が伸びた気がした。
履きなれないこの靴で歩くのもどうかと考えたが、待ち合わせ場所まではほんの数分。
ちょっとの我慢だと、私は家を出た。

「久し振り」
「久し振りだね」
そう言葉を交わしたのは、幼馴染の絵梨。
お互い実家から離れているところに嫁いだので、こうやって会うのは本当に久し振りだった。
数年前に年賀状で見た時は感じなかったがこうやって面と向かうと、歳を重ねたんだなとしみじみ思う。きっとあの写真に苦労するのは何処も同じなのだろう。子供そっちぬけで、少しでも写真うつりが良いものを選ぶ苦労。

彼女が出してくれた車で目的地へと向う。
こういったものにも季節がらなんてあるのか解らなかったが、駐車場で隣り合った老夫婦が最近寒くなったから……としみじみと言っていたのを何となく耳に入った。

「さぁいこう」
そう言われて、大きな案内に導かれて建物に足を踏み入れる。
懐かしい面々が大勢いた。
目の前に広がる、真っ黒な集団は異様な感じ。
式の前なのに、あちらこちらで啜り泣く声が聞こえる、中には嗚咽混じりの泣き声までも。

さっき見た大きく書かれた懐かしい名前。
長年会っていなかったから、ここに来てまでも実感が沸かない。
入り口に立った私に、中にいた人達の視線が注がれた。
同情の目だろうか……

目は合うけれど、皆一様に視線をずらす。
みんなは昔のまま、時間が止まっているのかもしれないと感じた。
本人達はとうの昔に忘れていたのに。
背中に、そっと絵梨の手が添えられた。
「大丈夫?」の声と一緒に。

「大丈夫だよ」と声を返した。

そのうちに、係りの人から案内があり、私達は列をなした。
まだ働き盛りだった彼の為に訪れた沢山の人。
私達は、その列の後ろにそっと並んだ。
一歩一歩、少しずつ前に進んでいく。
両側に並べられた椅子の真ん中を、ゆっくりと確実に前へ進むさまは何度来たって慣れるものではない。
別れを告げた人が、部屋を出て行くと段々に広がる視界。
その先に、綺麗に飾られた祭壇の真ん中に懐かしい顔を見つけた。
久し振りにみた彼は、笑い皺が深くなっているようだったが、昔の面影のまま。
素敵に年を重ねてきたのだろうなと、思わずにはいられなかった。

正面の左右に座る親族に頭を下げる時に、あれ以来、連絡を絶っていた彼女が目に入った、
憔悴しきった彼女は、ぐったりとしていて、ちらっと見えた瞳は真っ赤になっていた。
祭壇を見つめた。最後のお別れっていったって私達はとうの昔に別れを告げている。
今更な感は含めないが、焼香をしながらさっきの写真を思い浮かべた。
楽しい事の方が断然多かったはずなのに、最後が最後だっただけに思い出にもしてこなかった彼とのこと。
写真の中の笑った彼は、私にほほ笑みかけていたあの頃となんら変わりが無くて、さっき家でみた写真そのままにも見えた。
隣の絵梨が頭を下げたのと同時に私も頭を下げ、彼の写真に背を向けた。

「奥さんの隣に居たの息子さんだよね、そっくりでびっくりした」
彼女しか目に入らなかった私は

「そうだったんだ」
そう返す事しか出来なかった。

列の最後の方に並んだいたのだが、彼と別れを告げる人は後から後からやってきて、お経の声は途切れると事なく、続いていた。
お清めをと声を掛けられたが、私は首を振っていた。
絵梨は
「じゃあ私ちょっと声を掛けてくる、どうする?」
と私を見た。
私はまた黙って首を振った。

絵梨が、先にお清めの会場にいった昔馴染みのところへと向かうと、私は駐車場へと足を向けた。
ほんの少しの間しかいなかったのに、私の袖口からは線香の匂いが香っていた。

車まであと少しというところで、私を呼ぶ声。

「若菜さん」
その声は彼の声そっくりで。
ずっと忘れていた彼の声が、一瞬に私の頭の中を駆け抜ける。

――若菜――
いつだって彼の声は優しく響いて。

「若菜さんですよね」
私と同じく、黒い服に包まれた彼が直ぐ後ろに立っていた。

声も姿も、ほんと絵梨の言う通りあの頃のあいつにそっくりだった。
神妙な顔をした彼は、それこそ私が最後にみた彼そのもののよう。
全身に鳥肌が立つのが分かった。動揺を悟られないように気をつけながら

「この度は、ご愁傷さまでした」
私は深くお辞儀をした。

「いえ、今日は来て下さってありがとうございました。きっと父は誰よりも貴方に会いたかったと思いますから」
そういって、目の前の彼は空を見上げた。

「そんな事ないと思いますよ」
それは本音。だけど、彼はすぐさま反論してきた。

「それは違います。少なくとも父はそうでした。僕は以前から貴方の事は知っていましたから」
そういって、彼は私の顔をまっすぐな瞳で見つめ、話してくれた。
中学生の頃、遊びにいった祖父母の家で、一冊の本を見つけた事。
父に似て本を読む事が好きだった彼は、その本の表紙を開いた事。
読み進めていくうちに、途中数通の手紙が挟んであったと。
宛名は書いていなかったけれど、内緒で開いてしまったその手紙には何度も『若菜』という名前が書いてあった事。
父が貴方の言葉を信じられなかった後悔の言葉が綴られていました。
彼はそう話してくれ、私の目の前に一冊の本を差し出した。

あの本だった。

思えば私達が付き合うきっかけがこの本だったんだ。
偶然、同じ本が好きだという事を知ったあの日から私達はお互いを意識するようになったのだから。

「ありがとう、でもこの本は受け取れないわ」
私は両手でその本を押し返した。
きっと中にはその手紙が入っているのだろう。
少しだけ読んでみたい衝動にも駆られたが、それは読んではいけないような気がした。
あいつが、手紙を出さなかった事は、そういうことなのだろうから。

「そうですか……」
本を持った彼の手がだらりと下に落ちた。

「お母さんを支えてあげてね。強いように見えて結構弱いからね、沙良は」
十数年振りに口にした嘗ての親友の名。

彼は目を見開き、驚いた顔をした、知らないのは当たり前だよね。
彼があいつの秘密を暴露したように、私も少しだけ昔話をする事にした。

貴方のお父さんと引き合わせたのは、他でもない私だという事。
一目惚れした彼女は、初めこそ遠慮したけれど、最終的には彼を手に入れた事。
本当に、貴方のお父さんを愛していたから、お父さんもそれに応えたのよと。
だから、貴方がここにいる。
手紙の事は、忘れてお母さんの支えになって欲しい。
一つだけ、お願い出来るとするならば、その手紙を彼と一緒に棺に入れて欲しいと言葉を締めくくった。
お母さんに、ばれないように、もし出来たならね、と。
彼には関係の無い事だったかもしれない。
聞かない方が良かった話かもしれないけれど、彼の真直ぐな瞳は私の話を聞いても揺らぐことはなかった。きっと、手紙に書いてあったのかもしれないと。
彼には本当に申し訳ないと思ったけれど、沙良へのちょっとした復讐もあったのは否定できないから。大人げないと思ったけれど、私には必要だったのかもしれない、嫌な過去への決別として。

彼は深くお辞儀をして、私の前を立ち去っていった。
入れ替わるように、絵梨がやってきた。

「すっきりした顔してるね」
見ていたのだろう。それだけ、言って車のロックを外した。

「彼ね、若菜の顔知っていたみたいだったよ。あの会場に来て真っ先に若菜の事聞いていたから。さっき一緒に居た人は何処ですか? ってね」

きっと、手紙を見つけた後、あいつのアルバムでも見たのかもしれない。
思春期に父親のそんな手紙を見つけた彼はどう思ったのだろう。
きっと穏やかじゃなかったに違いない。
でも彼はこうやって、私の事探してくれた。
彼に似て優しいのだろうなと、遠ざかる斎場を見ながらそう思った。

「すっきりしたら、悲しくなってきた」
助手席の窓を下げ、冷たい風を受けながら目尻にハンカチをあてた。

絵梨に家まで送って貰った。
そして、じゃあね、とまたすぐにでも会いそうな素振りで、走り去っていった。


実家の玄関先には、小皿にのった塩の固まり。
指先でちょっと摘まんで、自分に振りかけた。

貴方、はらわれちゃったわよ。

なんて思って見たり。
ただいまとひと声かけて、窮屈な革靴を脱いだ。
喪服を脱いで、ストッキングを脱ぐとほっとした。
部屋着に着替えるとそのまま、あの部屋に向かった。

古びた背表紙を手に取ると、写真を取り出して、しっかりと目に焼き付けた。
そして、躊躇する事なく破り始めた。
その塵となった写真の屑をティッシュペーパーに包んでゴミ箱に捨てた。

ちゃんと思い出として、貴方の事、私の心に残ったから。

本を片手に、皆がいる階下に向かった。

「おかえり、お疲れ様だったね」
私と彼の過去を知っている母も、今回の事は胸を痛めているに違いなかった。
彼は母のお気に入りだったから。
別れたと告げた後の母の驚いた顔は覚えている。

「生きているうちにもう一度会いたかったかもね」
そう呟いた私を理沙は不思議そうに見ていた。

「もしかして、お母さんの初恋の人だったりして?」
探るような視線を向けた理沙に

「お父さんに内緒だよ」
と耳打ちした。

「そういえば、理沙、新しい本読みたいって言ってたでしょ。これお母さんが若い時好きだったんだ」
そう言って、本を差し出した。
古ぼけた本を手に取った理沙は、いぶかしそうに表紙を捲った。

「この作家聞いた事ないな」
そう言いながらも、既に読書モードに入ったようで、真剣な目でページを捲り始めた。

この本は、母が買ってくれた本だったっけ。
目を細めて、理沙を見る母の顔は嬉しそうだった。


仲の良かった恋人同士だったけれど、彼女の親友に横恋慕されてしまい、ありもしない事実をねつ造されて、彼は不安に陥っていく。彼女は親友の策力に嵌って、彼の浮気を仄めかされる。そして、疑心暗鬼になった恋人同士が別れてしまうお話。その心理描写はまるで当事者にでもなったように胸を締め付けられるもので、何度涙したか分からないものだった。
まさか、私本人がそのほんと同じような経緯を辿るとは思わなかったけれど。

本の最後は、お互い別の人と結婚して、子供を持った彼らだったが、人生の大半を終えようとした時、お互いの伴侶をなくし、子供も離れた後で、偶然再会する。
そして、結婚さえしなかったけれど、人生の終焉を迎えるパートナーとして、夫婦よりも恋人よりもより近い存在となって最後の時を迎えたという話。
長い時間をかけたハッピーエンドの話だった。

彼は亡くなってしまって、私達は偶然再会する機会も失ってしまったけれど。
今日この日を境に、真新しい思い出となって私の胸に刻まれた私とあいつの過去。

こういう運命だったんだよね。
夢中になってページを捲る理沙を見ながら、そう思った。

きっと、古びた背表紙は理沙の本棚に並ぶ事だろう。
新しい本ばかりが並ぶ中に、一冊だけ並ぶ古びた背表紙を思い描いた。