ひよこ


「ちょっと待ってってば。」

俺の後ろから百合の声が聞えた。
コンパスの違いがあるのだから、俺が普通に歩けばあいつが俺に追いつかないのは重々承知の上だ。
そのうちに今度はドカっという衝撃音。
角を曲がり損ねたのだろう、どんだけ鈍くさいんだか。


ちょいと後ろを振り向き

「鈍癖ー奴だな」
って手を引き上げる。――予定だったのに。

誰だお前は!

しなやかに長身を屈めて百合の手をとる男一名。
声を大にして言いたい。

百合に触るんじゃねえーっ。

だけどここは、会社のロビーだ。
そんな声を上げることなんて俺には出来なかった。

っておい、百合まで顔を赤くしてるんじゃねよ!

ついに俺はカツカツと靴を鳴らしながら2人に近づいた。

「なにやってるのお前。」
そうそれは目線は百合に向けたままだが、この男の向けた言葉。
さりげなく背中に手を回してるんじゃねえ。
ってな具合に。

「愁ちゃ……係長。」
やっとこ視線を俺に向けたこいつ。

俺はこいつが拾い損ねたファイルの一部で頭に一発お見舞いした。
ちゃんと着いて来い。
百合は言葉にしなくてもわかるんだろう。
コクリと頷いた。

慌てて、その男にお辞儀をしてお礼を言う百合。
すると、その男は

「あんまり無理しないでね、加藤さん。」
とにっこり微笑みやがった。

一瞬呆けた後、不思議顔の百合に、
男は自分の胸の辺りを指差し

「じゃあ」
と去っていった。

百合は言うと自分の胸の辺りを確認して納得したようだ。
俺らの首からはスタッフカードなる身分証明書がぶら下がっている。

気障な野郎だぜ。
と思いながらも、少しだけコンパスを縮めてしまう俺がいた。
スッタフカードを下げていない所をみると社外の奴だろう。
もう2度と会うことはないとは思うが。
それにしても百合の奴、他の男にあんな顔するなんて後で覚えとけよ。
俺の心の中に小さな野望が湧き上がったのだった。

その晩、あいつの部屋からは悲鳴が響き渡った。

「あーっ、そこ嫌だ。もう止めてってば、お願いだからもう勘弁してよ。私壊れちゃう……よ。」

「お前運動不足なんじゃねえの。ほれ、ここいいだろ?」
俺は加減する事なく、指先に力を込める。

「優しくしてくれるって言ったのに。」
段々と百合は涙目になってきた。
こんなことをしている最中に俺は優越感に浸ってしまう。

「お願いーもう駄目ーっ。」
百合の声が大きくなったその時。

突然バタンと開いたドア。
そこには鬼のような顔をした姉貴が立っていた。

「あんた達、紛らわしいことしてんじゃないわよ。」
俺達の姿を確認して、大きなため息をついた。

「だってー愁ちゃんが……」
そう言って俺を責めるような顔で見上げる。

「あんたね、愛情表現間違ってるわよ。いつまでもそんなことしてると、本当に百合に愛想つかされちゃうんだからね。このシスコン。」

そうだよ、悪いかよ。
シスコン上等だよ。

俺は未だに掴んでる百合の細い足首をもう一度掴み直し。
結構な力をこめて、これが最後だと足裏を親指できゅーっと押した。

すぐさま聞えた百合の絶叫と俺の脳天に響く鈍い音。
姉貴がそばに落ちていた”よく効く足ツボ”の本を片手にさっきより更に凄い形相をして、もう一度振り被ろうとしているところだった。




小さな時からひよこのように俺の後ろをついてきた可愛い妹とあのいけ好かない野郎が接近するのは、このちょっと後の話だ。
が、あまりにもムカつくのでこの話をする事は無いと断言しておく。