涙の訳

綺麗な指先

顔に朝日を浴びて目が覚めた土曜の朝。
今日こそは返事をしなくては、返事をしたいと思う自分。
クローゼットの中のレッスンバックから参考書を取り出した。

push one's way through.

突き進む

その文字を指でなぞる。
そのまま、携帯を開いた。

――先日はすみませんでした。先生に会わせて頂きたいです。宜しくお願いします。 前原瑠璃子 ――

そこまで一気に打って送信ボタンを押した後、急いで携帯を閉じた。

「前原さーん。ごめんね、突然。本当に今日で大丈夫だったの?」
電車に揺られる事数分、2つ駅を挟んだこの公園で待ち合わせをした。
目の前で手を振る穂波さんはこの前とは別人のような明るい顔をして現れた。
正直、あまりの変化に戸惑った。

「う、うん」
そんな返事しか返せなかった。

穂波さんに連れられてきたのは、駅のロータリーにあるバス亭。
ちょっと先なの。
そういって予め用意してくれていたバスチケットを渡された。
程なくしてやってきたバスに2人で乗り込む。
「ちょっと先なんだ」
何処に行くかは言わなかった穂波さん。

緊張して、喉が渇いてきた。
もうすぐ会える、そう考えるだけで身体が固まってしまう私。

自宅なのだろうか、それとも先生のいる何処か? バイト先かもしれないし……
運転席の後ろに書いてあるバスの停留所の名前を目で追った。

本町、本宮町、神明1丁目…… 
その先で目が止まった。

田野倉総合病院

心がざわめく。
もしかしたら、いやそんな事あるわけない
気がついたら唇を噛んでいた。
そんな私の顔を見たのだろう。

「行く先は、そこなの。田野倉総合病院」

頭の中が真っ白になった。
先生が入院?

動揺する私を気遣うように
穂波さんは静かに話し出してくれた。

交通事故だったと。
横断歩道のない道路を横切ってしまった先生は車に撥ねられたと。
幸い、その車の人が直ぐに救急車を呼んでくれた為に命に別条はないというのだが
もう半年、目を覚ましていないと。
目に涙を溜めて語ってくれた。

放心状態のまま、バスを降りた。
目の前にそびえたつ、大きな病院を目の前に私の足は竦んでしまう。
本当にここに先生がいるの?

穂波さんに軽く背中を支えられながら、病院の敷地へと一歩踏み入れた。
総合病院というだけに、大きな中庭には様々な人が。
車いすに乗っている人や松葉づえをついている人。
廊下ですれ違う人も点滴をつけながら歩いている人も少なくない。

大きな吹き抜けの受付ロビーを通り抜け、エレベーターの前で足を止める。
数字の5を押し、エレベーターが降りてくるのを待った。
自分が知っている病院とは医者も看護士も患者の人も桁違いだった。

先生の病室はナースステーションの直ぐ隣にあった。
部屋の入口に先生のフルネームの入ったプレートが少し曲がってさしてあった。
先生に良く似た細く長い指で穂波さんがそのプレートを直して、私に向きなおって
「入って」
とさっきのように私の背中を軽く押してくれた。

カーテンのあいたその部屋は明るすぎるほど。
窓際のベットに先生は横たわっていた。
目を閉じて、まるで眠っているよう。
ベットの裾から繋がる点滴を除けば本当に病院にいる人には見えなかった。
でも、少し痩せたね。
頬から顎のラインにかけて、私の記憶する先生よりだいぶすっきりしていた。
勧められてベットの横にある椅子に腰かけた。
穂波さんが先生の耳元で
「前原さんが来てくれたよ」
そう言って、私にも「声を掛けて貰えるかな」と。
私は立ちあがって、先生の枕もとに。
こんなに近くで先生を見るのは初めてかもしれない。
目を閉じた瞼、驚くほど長いまつげが胸の上下と共に揺れていた。

「先生、お久しぶりです。前原です」
そんな言葉しか出てこない。
返事のかえってくることがないと解っていてもやりきれないものがある。

穂波さんはベットの隣にあるサイドボードの引き出しを開けた。
取り出したのは、細長い箱。
その箱を私に差し出すと
「これ、兄があの日に持っていたんです。あともう一つこれと同じものを。多分大学の合格祝いだと」
初めのうちは家にある先生の机に置いていたのだが、中々目を覚まさない先生、どうしても気になって開けてしまった。
と穂波さんは言った。
「ボールペンでした。兄も持っているんです、とても使いやすいって。イニシャルが入っていたので一つは私のものだと」
そうして、包み紙を丁寧にはがしたその箱を開いて見せてくれた。
R.Mと印字してある真新しいボールペン。
それは、いつも先生の胸ポケットに入っているものと同じだった。

「最近までずっと解らなかったんです。兄が誰にそのボールペンをプレゼントしたかったのか」
そういって、真っ直ぐに私を見た。
「前原瑠璃子。あなただったんですね、あのポスターに映った兄とあなた。あれが無かったらきっとずっと解らないままだった」
箱を手にした私の甲にぽたりと涙が落ちてきた。
聞くと先生が病院に運ばれたのは、ホワイトデーの3日前だったそう。
来なかったのではない、来れなかったんだね。
胸のつかえが下りたと同時に、やりきれない思い。
目の前にあなたがいるのに、あなたの声が聞けないという事実。
本当に泣き虫になってしまった私。
そんな私に穂波さんはボールペンを持っていて欲しいと、私が持つべきものだからと。
嬉しすぎる申し出だったけれど、私は首を振った。
「先生は、きっと直ぐに目が覚めると思います。だから、私はその時に先生から直接渡して欲しいってそう思うんです。」
穂波さんに渡された時と同じように紙に包んでその箱を渡した。
「それに、もし人違いだったら恥ずかしすぎるから」
そう笑ってみせた。
本当はそんな事考えたくなかったけれど、少しは逃避先も作っておかなくちゃだからね。
命に別条は無いって聞いた、ただ眠っているだけで何処も悪くないって。
穂波さんは見た事がないけれど、看護士さんの中にはたまに薄眼を開けている感じがしたって言う人もいるみたいだった。
だから――
それまで待ってみようと思った。
その先に私が振られてしまう現実があるかもしれない。
先生の現状を知ってしまった今、私はそれでも前に突き進む事しか出来ないとそう思った。
先生が重要だよ、とラインを引いてくれたあの言葉を噛み締めていた。

帰り際、ベットの裾から先生の手を握らせて貰った。
力なくベットの端に置かれたその手、だけどその手は暖かくて。
先生が確かにここにいるという証。
チョークを握らなくなったから、あのクリームをつけなくても先生の手は荒れる事なくて。
手を離す間際、そっと爪に触れてみた。
綺麗に切りそろえた爪は家族のみんなが、先生がいつ起きてもいいようにと願っての事だろう。
どんな言葉でもいい、例えそれが私とって悲しい失恋の言葉になろうとも。
先生の声が聞きたいと強く願って、先生の手に布団を掛けた。

「また来ます」
と耳元で囁き、穂波さんにお辞儀をすると逃げるように病室を出た。

「待って」
廊下を歩きだした私に穂波さんの声。
病室を出るまでと我慢していた涙、堪えなくてはと強く目を瞑った。
足を止めた私に、穂波さんが並んだ。

「また、来てくれるよね」
そう言って私の手を握る。
ぎこちないだろう笑顔を作り私は力強く頷いた。
穂波さんは安心したようで、強張らせた顔を緩めると
「今日はどうもありがとう」
と深々と頭を下げた。
何か一言でも言葉を発したらきっと堪えてきた涙が零れてしまう。
申し訳ないと思いつつも返事はまたぎこちない笑顔しか見せることは出来なくて。
振り返る事もせずに足早にエレベーターに向かった。
幸いエレベーターには誰もいなくて。
鞄から取り出したハンカチを目にあてる。
誰が来るとも解らないこの空間で、声を上げずに涙を流した。
バスにも乗らず、駅までの道のりを歩いていく。
会いたくてしかたがなかった先生に会えた事。
嬉しくて堪らないはずなのに。
どうして、こんな事になってしまったのだろう。