涙の訳

チョコレート

街中にあふれる甘い香り。
もうすぐ近付くバレンタイン。
どこもかしこもピンク色いっぱいだった。

あと、4日と迫った決戦の日。
街も人もみな色めきだっていた。
私には関係なくなっちゃったからな。

重たい足を引きずって、家路に着いた。
玄関を開けると、すごい勢いで家の中からお母さんが飛び出してきた。

「ただいま」
いつもと同じように声をかけ靴を脱ぐと。

「良かったね、おめでとう」
ってそれだけ言われた。

電話するって言ったのに、連絡をいれなかったことに気がついた。
今日起きた事に衝撃が大きすぎて、忘れてしまったんだ。
取りえず着替えてくると自分の部屋に向かった。
部屋の前には、弟が立っていた。

「おめでとう。さっき母さんから聞いた」
「ありがとう」
そう言ってドアノブに手を掛けて気がついた。

「さっきって?」
振り返った私に弟は冷たい声で答えてくれた。

「あんまり姉貴が連絡してくれないから、何かあったのかってみんなで心配して」
そこで一旦言葉を濁した。私は無言で次の言葉を待った。
「父さんがさっき大学まで発表見にいってきたんだよ。もしかして、姉貴落ちて連絡入れられないんじゃないかって」
本当は母さん連絡きたらすぐい買い物に行って今日はご馳走だってはりきっていたのに、心配で買い物にも行けなかったんだぞ。

バツが悪いとはこのことだろう。
私が悪くて、おまけに弟はその経緯を教えてくれたというその事実に。
ドアを開けて一歩踏み出した。
「ごめんね」
それだけ言って後ろ手でドアを閉めた。
ドアの向こうで弟がそれは父さんと母さんに言ってやれって。

解ってるよ。

机の上にある鏡を見ると頬を伝った涙の跡がくっきりと。
これで街中彷徨っちゃったよ。
知っている人に声をかけられなくて良かった。
あなたに鉢合わせしなくて良かった。

少し経ってきてから帰ってきた父さん。
何も余計な事は言わずただ一言
「頑張ったな」
って。
本当に頑張ったと思う。
一年前の成績じゃ考えられなかった快挙だ、自分でもそう思うのだから。

この時期、志望する学校に受かった生徒や就職の決まった生徒は自由登校になる。
私はこの一年で失った睡眠時間を取り返すみたいに、いや、貪るようにベットに張り付いていた。

精神的にも肉体的にも何かもがどうでもよくて、気力がでなかった。
体が思うように起きてはくれなかったというのが事実だ。

体を横にしながら、机の横に掛けてあるあるレッスンバックを見つめた。
参考書がぎっちり入ったそのバック。
毎日通ったあの場所にいつも一緒に。
もう、使うことはない参考書。
もう行くことはないあの場所。
あの人は今日もまた、最後の追い込みをかけた受験生と共にあの場所に立っているかと思うと、胸がきゅーっと苦しくなる。
いつの間にか右手で胸を掴んでいた。
呼吸が苦しくなる。
こんなにも、こんなにも好きになっていたんだね。
こうなることは解っていたはずなのに。
私はただの生徒だったのだから……。

私の変化に気が付いてる家族。
これ以上心配かけてはいけないと、ご飯だけは食べていた。
出ない食欲を押しのけて、少しずつむりやり口に運ぶ。
何度かむせそうになるのを悟られないように必死で押し戻し胃の中におさめていく。
食事というのには程遠いものだった。

そんな中、部屋の隅においてあるテレビからは華やかな音楽と共にテンションの異様に高いレポーターが画面いっぱいに映っていた。
明日のバレンタインを控えて、いろいろな人にインタビューをして売れ筋のチョコをピックアップして。
去年のあの人は袋いっぱいにチョコを貰っていたっけなと思いだす。
私はあげられなかったな。

ふと心によぎる甘い誘惑。
義理とかそんなの関係なく、お世話になったと渡せばいいのじゃないだろうか。
実際、あなたがいなければ、あの学校には受からなかったのだから。


最後に、あなたの姿を目に焼き付けておきたい、あわよくば握手をしてあなたの温もりを感じたいと。
そんな誘惑。

無理に押し込んだ食事を終え、一晩ゆっくり考えることにした。
考えるのではない、勇気を持つという感じだろうか。

久しぶりに参考書を開いた。
とはいえ4日ぶりだけど、毎日擦り切れる程見返したこの参考書。
この一年のことを考えると4日見ないというのは考えられない日数だ。

どのページを捲ってもそこには勉強した証がある。
私のメモ書きやアンダーライン。
そして、あなたが書いてくれた重要ポイント。
小さく書かれたその文字は黒板で見るよりも癖がなく、少しまともにみえるもので。
愛おしくなって、何度もその文字を指でなぞる。
1ページ、1ページ。

あの日以来、やっと朝という時間に起きた私。
心は決まっていた。
如何にもみたいな手作りはあげられない。
幸い、受験勉強に必死でどこにも出かけず、買い物もしなかった私には多少の余裕もある。
ブランド物のチョコはさすがにあげらないが
「チョークで手がかぶれ気味だ」
と言っていたあなた。
黒板に向かうあなたの指はとても長くてすらりとしていて、見とれてしまうような指に見えたのに。
間近でみる指はなるほど、ささくれだったりかぶれていたり、痛そうだった。
ちょっとだけ高価なハンドクリームを買ってみようと決めていた。

駅ビルが開く時間を待っているのがもどかしい。
じっとしていられなくて、自分から洗濯を手伝うことを母に言うと嬉しそうな顔をしていた。
心配かけてごめんなさいと口には出来なかった。

冷たい空気を頬に浴びながら、一枚一枚丁寧に洗濯物を干していった。
2度目の洗濯機が止まる頃には、開店時間ももう間近に迫っていた。
げんきんなもので、一度目とは違いパタパタとせかすように洗濯物を広げる。

ちょっと手抜き気味に洗濯物を終えた。
母親に一声かけて、お気に入りの洋服を身につける。

学校と塾の往復ばかりしていた私はいつも制服ばかり。
気合を入れて着替えるのはいつ振りだろうと、姿見の前で笑いがこみ上げてきた。
あなたに会えると嬉しい半面、もうこれが最後だと思うと……
思いっきり頭を振って、今浮かんだ言葉を抹殺する。

最後だからこそ、楽しめばいいんじゃないかと。
まずは買い物だ。
あなたに会うのは塾が終わるその時間。
誰にも邪魔されることなくその時を迎えたいと願いながら。

バレンタイン当日に購入する人も結構いて、店の中は平日といえどいつもとは違う賑わいを見せていた。
名店街へ足を向け、一軒一軒目を凝らしてガラスのケースを見つめる。
5軒目のガラスケースに、私の目当てそのもののチョコレートが鎮座していた。
振りかえることなく、そのチョコを購入。
控え目な大きさの上品な感じのするチョコだった。

次にハンドクリーム。
正直これは良く分からない。
商品棚を熱心にはたきをかけている店員に声を掛ける。
「チョークであれてしまった手に良く効くハンドクリームはどれですか?」と。

店員はこれでもかというほどの笑顔を張り付けて私を案内してくれた。
「予算にもよりますがと」
前置きした上で私の手に3品選んで置いてくれた。

その中で一番香料の少ない、シンプルなデザインのクリームを購入した。
チョコがメインじゃないんだよと言いた気に、ドラッグストアの紙袋の中にチョコを忍ばせた。

今までのお礼だよ。
そう自分に言い聞かせて。

買い物を終えた私は一旦自宅に戻った。
お洒落こそしたけれど、私が持つのはドラッグストアの紙袋ひとつ。
玄関で鉢合わせした母に
「色気がないのね、バレンタインっていうのに」
と言われてしまった。

外に出かけたのが良かったのか、これからの事を考えて気分が高揚するせいか、食事がおいしく感じられた。
さしずめ、腹が減っては戦は出来ぬといったところだろうか。
肝心な時にお腹が鳴ったんじゃかっこ悪いもんね。

夕食を済ませると、私は母に出かけることを告げた。
「何もこんな遅くに」と母は訝しがったが
受験に受かった報告とお礼を塾に言ってくると告げると母は納得したようだった。
あんまり遅くなるのだったら連絡しなさいよと。
父を迎えに寄こすからと。

私は大きく頷いて、あの紙袋を手に取った。
毎日通った塾への道。
ゆっくりと自転車を走らせた。
事務所にも顔を出すつもりでいたにも関わらず、ほかの先生に何も買っていないことを今更ながら気がついてしまった。
まだ開いているスーパーへ立ち寄り、大袋に入ったチョコを買った。
これで一先ず安心だ。

数分で塾の前に着いてしまった。
呼吸を整えて自転車置き場に自分の自転車を並べる。
塾の入っているビルを見上げると、煌煌と光る教室の明かり。
あなたはこの時間、いつものようにあそこの立っているに違いない。
じっと明かりを見つめて、もう一度深呼吸した。