涙の訳

卒業式

3年間通ったこの高校。
最後のホームルーム。
式では泣かなかったのに、こやってもうこの教室に入ることはないのだと思うと自然と前が霞んで見えた。
教室のあちらこちらからすすり泣く声が聞こえ始めた。

一人一人が今後の抱負を語りだすと、そのすすり泣きは最早すすり泣きというには言えない程に。
私も抱負を語る時はかろうじて声が出たくらいだ。

きっとこの光景をいつまでも覚えているに違いない。
一年間使い続けたこの机もこの椅子も、もう後数分もすれば私の席では無くなってしまう。
気持ちも体も昨日とは全く変わらないというのに、この学校を出た瞬間からは高校生という肩書が無くなってしまうということが未だ信じられない。

最後の一人が声を振り絞って、抱負を語り終えた。
机の並びで決めた順番だというのに、その抱負は印象深いものだった。

クラスの中で大人しい、目立たない男の子だったはずなのに。
その彼が、担任のような先生になると目をキラキラさせて、そう語ったのだ。
最後の最後で初めて彼の大きな声を聞いたかもしれない。
教室の隅の席でいつものように腕を組んで話を聞いていた担任の目にも始めから薄っすらと涙が溜まっていたのは解っていた。
その涙が彼の言葉で堰を切ったように溢れ出したのをみんながみていた。
25年教師をしていて、一度も卒業式で泣いた事がないと豪語していた鬼のような顔をしたこの担任が。
ポケットの中から取り出した皺くちゃになったハンカチをそっと目頭に当てていた。

「本来なら日直に号令をさせるところなのだが、今日は俺に言わせて欲しい」
教壇の前に立った担任は、教室の端から端へと一人一人の顔を見ながらそう言った。

張りの有る大きな声が教室中に響き渡った。

「起立。今日は本当におめでとう。
みんな揃ってこの日を迎えられたことをとても嬉しく思う。
何かあったら何でも相談にこい。
と言っても金はないからな」

お決まりの言葉を添えて担任はさっきよりも一際大きな声で

「礼」

「「「ありがとうございました」」」

私たちの高校生活が終わった瞬間だった。


最後の号令が掛ったというのに、誰も教室から出ようとしなかった。
みんな解っているのだ。
もうここには戻ってこれないことを。
このクラスメート全員で会うことは2度とない事を。

担任も出て行こうとはしなかった。
俺が最後に出るからな。そんなことを言っていたのだから。

そんな時、最初に出て行くのは女の子だった。
「みんなまたね」
それは、また明日とでもいいそうなそんな感じだった。
一人また一人教室を出て行った。
私もその一人。
ドアをくぐる瞬間にまた涙が出てきた。

このクラスでは中の良かった友人は殆どいなかった。
それだけ、遊ばなかったということだろう。
だけどそんなクラスでさえ、別れがたいのだ。

クラスを出ると、入学当時から唯一といっていい友達が私を待っていてくれた。
一緒に帰ろうと。

いろいろなところに行ったよね。
そうは言うがそれは去年までのこと。この1年は一緒に出かけた事なんてなかったのに。
思いだすことは、私と一緒に行ったところばかりだよと言ってくれた。

これからもずっと友達だよ。
そういって、ひとしきり遊んだ後にバイバイと別れた。

卒業式を終えて、もう高校に行くことはないと解っているのに、まだ部屋の壁には制服がハンガーに掛けられたまま。
もう袖を通すことはないというのに。

たまたま辞書を借りに来た弟に
「姉ちゃん留年でもするつもりなの?」
とからかわれた。

違うんだよね。
先に進みたくなかったんだよ。
誰もいない部屋で一人呟いていた。
そして、私はあと数日後に迫ったホワイトデーが気になって仕方がなかった。

部屋にいてもすることがなく、意味もなく街をぶらついた。
気が変になりそうだった。
確か、それが返事だからそう言っていたあなた。

期待してもいいですか?



そして、その日がやってきた。
朝も、いつも以上に早く目が覚めてしまい。
かといってすることもなくて、勿論、出歩くことは出来るはずもない。

ただぼんやりと時間が過ぎていくのを待っていた。
でもそれは午前中までの事。
お昼を過ぎた辺りからは時計が気になって仕方がない。
何度見上げたか解らないリビングの掛け時計。
見るあてもなくついているテレビ。
家の前で音がすると振りかえってしまう。
何度郵便配達のバイクに反応したことか。

心臓に良くない。
ホワイトデーだということしか聞かなかった。
そのホワイトデーが終わるまで後まだ10時間もあるのだ。

手紙?電話?それとも直接来てくれるというのだろうか?
それさえも解らない。
あの日逃げてしまったのは私。

その時、カタっと家の外から物音がした。
もしかして、さっき以上に鼓動が大きく跳ねる。
反対に緊張で石のように固まって動かない足。
チャイムが鳴るスピーカーに目だけが動く。
緊張のピークに達した時。

ガチャリとドアが開いた。
「ただいま」
買い物から帰ってきた母だった。
一瞬にして、緊張が解けて、足が動いた。
大きな息を一つ吐き、ソファに寄り掛かると、背中に張り付いた肌着。
知らぬ間に背中に汗をかいていたようだ。
どんだけ、緊張しているのだか。

「何見てるの?」
テレビに向かって座っている私に尋ねる母。
全くといっていいほど解らなかった。
改めて画面を見ると、ワイドショー。
テロップに芸能人同士の結婚の経緯がコメントと共に映っていた。
母は私の答えを待つまでもなく
「ちょっと意外よね」
それだけ言い残し、買い物した荷物を持ってキッチンに向かった。

買い物した荷物を有るべき場所におさめ、隣に座った母は、私の様子をみて何か感じているのだろうけれど、敢て口には出さないようだ。
きっと私から話すのを待っているのだろう。
それが解っているからこそ普通にしているつもりなのに、どうやら母には通用しないらしかった。
ぽつりと
「そんなため息ばっかりついていると幸せ逃げちゃうよ」
そう呟かれた時は正直驚いた。
だって、自分でため息をついているだなんて気がつかなったのだから……。

居た堪れなくなって、リビングを後にした。
本当は電話の有るリビングにいたかったのだけれど、これ以上母に突っ込まれたくなかったのだから。

落ち着け、落ち着け。
そう呪文のように唱えながら、あの参考書を開く。
赤いペンで書いてあるあなたの字をなぞってみても、尚更鼓動は跳ねるばかり。
仕方がないとパタリと閉じてみるのだが、数分後にはまた開いて。
そしてまた閉じて。そんなことを繰り返していた。