涙の訳

誕生日

着いたよ。
話に夢中で何処を走ったのかちっとも解らなかったが、そこは高台にある展望公園だった。
真夏の今時分、陽が傾くにはちょっと早すぎる時間。
ベンチの上に腰かけ、虫を払いながら他愛もない話をしてその時間を待った。
先輩が「ほら」
と指をあげた。思わず指に目がいってしまう。
先輩の指は男の人らしい、ごつい指だった。自然とあの人と比べてしまっている私がいた。
「もう直ぐだ」
その一言で前を見ると。
一際大きく見えた太陽が地平線へと近づいてくる。
頭上にはまだ青い空だけど地平線に行くに従ってその色は赤だったり紫だったり桃色だったり様々な色を醸し出していた。
こんなにまじまじと夕日を見たのは初めてかも知れない。
そのうちにも段々と太陽は地に落ちるようといか、吸い込まれるように山の向こうに少しずつ隠れていく。
太陽が隠れ始めた山からは放射型に伸びていく太陽のかけら。それは過ぎゆく時を惜しむようで。
私達は言葉も発せず、ただじっとその方向を眺めていた。
最後、完全に陽が沈むと
「綺麗だっただろ?」
って先輩の言葉。
「はい、とっても何だか感動ですね」
素直に言葉が出てきた。

「瑠璃子ちゃん」
私の名前をふいに呼ばれた。畏まった先輩の顔。私は先輩の顔を見据えた。

「俺、今日誕生日なんだ」

「えっそうだったんですか?」
唐突に言われたその言葉にそんな言葉しか返せなくって。

はははっって乾いた笑い。
慌てて
「おめでとうございます、何にもなくてすみません」
って、日頃お世話になっているにも関わらず、先輩の事を何にも知らないんだなと人ごとのように考えた。

「いいんだよ、別に催促しているわけじゃないからね」
そんなことを言われると何だか催促されているのかな、なんて。

「俺さ、今回の合宿も車出しだったんだけどさ、誰も乗せていかなかったんだ」
先輩の言葉の意図している事がいまいち解らなかったが、相槌は打ってみた。
そんな私の顔を覗きながら先輩は話出していく。

「合宿で、いろいろな人に瑠璃子ちゃんの事を聞かれたよ」

「そうだったんですか?」
特に考えずに返事をした私に次の言葉が襲ってきた。

「知ってる? 俺と瑠璃子ちゃんが付き合ってるって言われているの」

「はい、河原でバーベキュウをした時散々いじられましたから」
と笑ってかえしてみたものの、もしかして先輩は迷惑だったんじゃないだろうか、例えそれが噂だとしても。
自分の顔が強張ったのが解った。すみません、そう謝ろうとした時。

「その噂、本当にならないだろうか?」
今しがた太陽の沈んだ方向を見ながらそう言った先輩。

本当にならないだろうか。私の頭の中で何度も唱えてみる。
正直想像したことが無いとは言わないけれど……

男らしくないよな。と一人呟いた先輩が話し出した。
本当は、合宿に行く車の中で告白しようと思った事。
その為に私以外同乗者の予定はなかった事。
合宿の最中、私の事ばかり考えていたこと。
聞いている私は恥ずかしくて堪らなくなり、思わず手で顔を覆った。

「瑠璃子ちゃん」
さっきと同じよに私の名前を呼ぶ先輩。
私は手を降ろし、先輩の顔を見あげた。

「俺と付き合ってくれないか」
今度はストレートだった。
先輩の私を射抜くような真っ直ぐの瞳に思わず目を逸らしてしまった。

そんな私を見て先輩は
「今日は、断らないでな。だって、その俺の誕生日だろ」
っておどけながらそう言った。
いつもだったら、ここで笑うところなのだろうけれど、今の私にはそんな余裕は一切なくて。

稔先輩がそう言ってくれるなら、きっと私は先輩を好きになるような気がする。
その場で、お願いしますと言ってしまいそうになる私もいる。
だけど、こんな時にまで私の頭にはあの参考書が浮かんでしまうのだった。
きっと、部屋を出るときに目に入ってしまったからだろう。
私を引きとめているようなそんな感じがしてしまった。

「凄く、嬉しいです。良く考えさせて貰ってもいいですか?」
本当はこんな私の事を好きなって貰っただけで有り難いことで。
それは良く解っている。サークルの中でだって稔先輩は人気者だ。
真剣な眼差しで先輩を見ている人だっているのを知っている。
自分には勿体なさすぎる程の人なのに。
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そんな私に

「返事は急がないから。じっくり考えて答えを出して」
そう言って先輩はあの笑顔を見せてくれた。

そして、帰りの車の中。
少し気まずい空気が漂いながらも、先ほどの告白など無かったのかのように会話をしながら家へと送ってくれた。
「またね」「さようなら」
と短い挨拶を交わして、車を降りた。
家では、にこやかな母が出迎えてくれた。
「ただいま」
それだけ言うと、私は顔を引きつらせながら、着替えに向かった。

先生……。
あなた以外の人と恋をするなんて、去年の今頃は考えもしなかったね。
ため息をついて机に向かい久しぶりに参考書を手に取った。
たまたま開いたそのページには

push one's way through.

突き進む

とアンダーラインが引いてあった。
何処に? 何処に突き進めばいいの?

堪らなくあなたに会いたくなってしまった。
だけど、それは無理な事。
参考書を閉じて、私の想いを、もう一度封印した。
今では無用になったレッスンバックに参考書を入れて、クローゼットの奥に押し込んだ。