7歩の距離

散歩

翌日はめちゃめちゃ天気の良い朝だった。
いつもだったら絶対寝ている日曜日。 母ちゃんに起こされることなく、目が覚めたのは何時以来だろう。
普段役に立たない目ざまし時計を手に取り、時間を確認した。この時間だったらまだ兄貴は寝ているはず。昨日の今日なので兄貴には会いたくない。どういじられるか、気が気じゃないんだ。今のうちにと下のリビングへ降りてきた。
思った通り母ちゃんだけが、台所でリズミカルに包丁の音を立てていた。
気配で解ったのだろう、振り返った母ちゃん。俺に気がつくと

「あれ珍しい! 和弥かと思ったわよ。今日は何かあるの? というか隼人風邪は? 大丈夫なの? 無理しないでまだ寝ていたらいいのに」とマシンガンのように質問攻めだ。

「昨日早めに寝て、一晩ぐっすり寝たから、もう大丈夫だよ。折角、早く起きたから散歩いってくるよ」
母ちゃんは何か言いたそうだったが、俺は台所を背にして飼っている犬のカレンの散歩にでかけた。

家の目の前には杏の家。
自然と杏の部屋を見上げてしまうのは幼い頃からの癖。
カーテンがビシッと閉まっているから、まだ寝ているのだろう。
それを確認すると、カレンの綱を手繰り寄せ「行くぞ、カレン」と声を掛けた。
散歩が大好きなカレンは腰がちぎれるんじゃないかと言うほど腰を振って進み始めた。

そんなカレンの後姿を見ながら、大きくなったよなと呟いた。
カレンは2年前に杏と土手で見つけたんだ。
夕暮れで、オレンジ色に染まる静かな土手にポツンと置かれた段ボール。
初めて目にはいった時、薄茶色の小さな体は震えていた。
少しの良心なのか、そのダンボールにはタオルケットと一握りのドッグフードがあった。

許せない。

そう一言だけいって子犬を抱き上げた杏。
その瞬間には既に目にいっぱい涙が溜まっていた。 抱きかかえた子犬はとても暖かくて無邪気そうにぺロぺロと杏の首筋をなめていた。
こんなに寒い季節、置いていく事なんて出来なかった。杏が抱きかかえたまま俺達は家に向かった。
帰り道、もし飼う事を反対されたらどうしようとぽつりと呟いた杏。
その言葉に何もかえせなかった俺。
人も無く静まりかえった田んぼ道を2人は無言で歩いていた。杏の胸に抱かれ、時折”クーン”と鳴く子犬の鳴き声だけが耳に残った。

子犬を拾ってきた俺達は親に飼ってくれとお願いした。
すると心配していたのが拍子抜けのようにあっさり両家とも良いよと言ってくれた。

そしてその後、俺と杏で、どちらが飼うかで揉めまくった。
うちの親父が、うちの庭の方が広いから(今は違うが昔は農家だったらしい)家で飼ったらどうだろう? 飼うのはうちかもしれないが、杏ちゃんも一緒に世話をしてくれるのだろ? との提案に杏はしぶしぶ折れてくれた。

その代わりと言ってなんだか、杏には命名権を譲った。

そうしてついた名前がカレンってわけだ。
俺んちで飼ってるっていっても杏も散歩をするし、どちらかと言えば一緒に飼ってるってのがしっくりくるかな。親父の言った通りになったって事だ。
ここらは田舎で俺達の住んでいる住宅街を抜けると悠々とした田んぼの風景が広がっている。
今はまだ1月だから殺風景だけど、5月になったら一変する。
田植えの時期だ。
田んぼに水を張っているあの音、植えたばかりのあの小さい苗。それが穏やかな風になびいて音と共になんともいえない風景となる。俺の大好きな場所だ。
カレンの散歩をするにも、もってこいの場所だ。この田んぼ道の散歩はカレンに話しかけながら歩くのが何時の間にやら習慣になっていた。それは学校のことだったり、家族のことだったり。今日も例外にもれずに沢山話をしてしまった。勿論、杏の話を。これを誰かに見られたらかなり怪しい奴だったりするんだろうな、きっと。間違いない。


いつもより長めの散歩から帰ると、家の前に杏がいて、思わず息を飲みこむ。
忙しなく動き始める心臓をよそに、何も知らない杏は、俺の顔を見るなりでかい声で言い放った。

「ちょっと! あんた大丈夫なの! 寒いでしょ? 今日は私がカレンの散歩に行こうと思ってたのに。それより熱は?」
さっきの母さんみたいだった。

「あぁ寝たら治った。」
そんなぶっきらぼうに言わなくてもって自分で自分に突っ込む。

「ならいいけど、あんまり無理しちゃ駄目だよ。昨日だって調子悪かったなら無理してカレー食べなくても良かったのに」

「煩いなあ。無理なんてしてねぇよ!」

心配してくれているのに、ありがとって言えばすむのに、突然あらわれた杏に焦ったといか、動揺してしまって俺は思わず怒鳴ってしまった。どうしたんだよ俺の口! あーっと思ってももう遅い。

「あっそっ心配して損したわ、じゃあねカレン」
杏はそう言って、踵をかえしてしまった。


なにやっているんだ俺は。

家の中に入ると兄貴はもう部活へ出掛けた後だった。結局いつも同じくらいの時間に朝食を食べ始めた。
さっきの出来事が尾をひいているのか、またぼぅーっとしていた俺に。

新聞を読んでいた親父が
「まだ調子悪いのじゃないか?」
と言ってきた。
“どれどれ“なんて、母ちゃんがおでこに手を当て
「熱はないみたい。でもインフルエンザも流行りはじめたみたいだから、それ食べたら横になってなさい」と言われた。

本当は風邪でも何でもないのだけれど、何も考えたくないので、そうそうに朝食を食べ終え2階の自分の部屋に戻ってきた。

杏を好きだと気がついた翌日。
自ら7歩よりもっと遠い距離を作ってしまった俺だった。