贅沢な願い事

美佐子の引っ越し

「美佐子、あんた結婚する予定とかある?」

丁度、ご飯を口に入れようととした時、唐突に放たれた母の言葉。
突拍子もない言葉に、面食らい口元からポロっとご飯が零れた。

私の動作の一部始終を見ていた母親は
「あるわけないわね」の言葉と失笑、それに小さなため息をついた。

一体なんなのさ。そりゃあ、結婚する人もいるだろうよ、この年ならば。
でも仕事終わりにまっすぐ家に帰って缶ビールをあおっている私に相手がいると思ってたのだろうか。
零したご飯を拾いながら、鏡を見ずとも怪訝な顔しているのが自分でも分かった。

母は呑気に
「そんな顔していると皺が増えるわよ」
と失礼な事を。
誰のせいでそうなっているのか。この人の考えている事が全く理解不能だわ。

「ものは相談なんだけど、相手がいないんだったらしょうがない。あんた一人暮らしして頂戴。」

この唐突な申し出に今度は口に含んだ味噌汁を噴き出してしまった。
慌てて口元を覆い、テーブルを拭きながら母親を凝視する。
相談なんて、言葉を付けてはくれたが、これは決定事項なのだろう。
母はまたあきれた顔をしながらも平然としている。

私は
「は?」
それだけしか返せなかった。
だってだってよ。
仕事から帰ったら夕飯にはありつけるし、洗濯物だってやってある。
そんな暮らしに慣れてしまった私をこの家から追い出すって……
マザコンでもファザコンでもないけれどしいていうなら、ハウスコンってのかもしれない。
私はこの家が好きなんだってば。
世間一般にパラサイトシングルって言葉があるのは知っている。
私もその中の一人なわけだけど、だけど。
あ〜何でなの。
その答えは
「あのね」
と私に向けていた顔とは一変し、緩んだ頬と共に告げられた事で直ぐに判明。

兄貴が帰ってくるというのだ。
結婚して近場のアパートに住んでいた兄貴夫婦。
そんな兄貴夫婦が転勤で他県へ移って丁度5年。
その兄に先日また転勤の話が出たと言うではないか。
それも、元いた職場に昇進という形らしい。
今度はもう転勤がないというので、いっそ同居にという運びになったのだと。
つまり私はお払い箱というわけだ。

でもその気持ちも分からないではない。
兄貴のとこに生まれた、双子の沙良と太一。
私の目からみてもすっごく可愛い。
ましてやこの可愛い盛りに遠く離れて中々会えなかったもんだから、両親の喜びようといったら……。
私は反論する事は出来なかった。
驚く事に、もうアパートは決まっているというじゃないか。
それも兄貴達が住んでいたあのアパートだ。
引っ越しは来月の頭。
もうそん事まで決まっていたなんて。
まあこの年までやっかいになれたのだから納得するしかないのかもな。

自分の部屋に戻ってくるりと全体を見渡した。
兄貴が帰ってくるっていうことは、この部屋をすっからかんにして明け渡せということなんだろう。今週末からは部屋の片づけで終わりそうだよ。
香也程じゃないけれど、私も結構物持ちのいい方だと思う。
こんな時はその物持ちの良さが返って裏目に出るものかも。
物持ちがいいって言えば聞こえはいいかもしれないが、要は捨てられないのだ。
学生時代に交換した手紙だったり、何かの切り抜きだったり。もう着ることのないって分かっている制服もとってあったような……。
恐る恐る押入れを開けてみると、山積みになった箱が。
よくもまあため込んだもんだ。きっと10年近く開いていない箱もあるだろう。
大きなため息を一つ吐いた。でもそうと解ったらじっとしていられないのも性分。
試しにこの箱からやっつけますか。
腕まくりをして、ちょっと小さめな箱を取り出した。
それは、中学時代に交換した手紙の箱だった。手紙の殆どは香也からのものだったが、その中に紛れて、大地のもの。
それはノートの切れっぱしで”次の英語の訳教えて”だったり国語の先生の似顔絵だったり。
当時を懐かしむものばかり。これは……捨てられないな。
始めたばかりなのにこのありさま。
来月までにどれくらい減っているのだろう、もう一度大きなため息が出た。
箱はしょうがない後回しにしようと、押入れの奥に突っ込んであるプラスチックの衣装ケースを引っ張り出した。これは中学と高校の制服だ。
あんまり体形は変わってないと思っていたけれど、手に取ったスカートのウエストの細さに愕然とした。あんまり体重は変わってないと思うのだけれど。
確かに、胸は成長したわよ。一緒にこっちも成長していたのね。
下腹を少しつまんでみる。ちょっと虚しくなったりして。
そんな思いをしたせいか、制服にはちっとも未練が残る事なく手早く畳んでビニール紐でくるくるっと縛りつけた。一歩前進ね。その後も出てくる洋服には見向きもせず、纏めて縛る作業を繰り返す。30分もすると3つあった衣装ケースはすっかり空になっていた。
気を許すと、洋服を広げて、その当時を懐かしんでしまいそうだ。この服を着てみんなと一緒に何処に出かけたな、とかね。
ごそごそと動く音が下の階まで聞こえたのだろう、ノックの後にひょっこり母親が顔を出した。

「あら、あんた結構のりきじゃない。それだったら、引っ越す日取り早目ようか。」
って冗談じゃないよ。
「いいってそんな事しなくって。」
慌ててかえした私に
「冗談よ、お父さんがそうはさせないって。」
と高笑いをしながら、パタリとドアを閉めて階下へ戻っていった。

急にやる気がなくなってごろりとベットに寝ころんだ。
この部屋とも、もうお別れかぁ。
一昨年変えた、若草色のカーテンが風もないのになびいていた。
お前も寂しいって思ってる? 馬鹿みたいだけどカーテンに向かって呟いていた。
心配しなくても一緒に連れてってやるからね。
なんて、人が聞いたら頭大丈夫? って心配されそうな独り言を呟いていた。

その週末に、朝から私は押入れの片付けにかかりっきり。
頑張ったかいあって、押入れの中はものの見事に綺麗になった。
後残っているのは机やベットに普段使う日用品。
もうアパートも契約しているとあって、鍵は貰っていた。
押入れにあった捨てられないものは、もうアパートに置いてきてある。
私一人だけしか住まないんだから、1ルームでもいいのに何だって普通のアパートにしたのだか。家賃は突然追い出したのだからと父親が半分出してくれるという。でもそれも1年だそうだ。その後払えなくなったら自分で好きな所を探せということらしい。ちょっと面倒臭いと思ったの事実。でも半分出してくれるっていうのだからそれはそれでいいのかもな。

次の週末はこの部屋と惜しむように何処にも出かけずに部屋でのんびり過ごしていた。
箪笥の中身は半分に減り、押入れの中は見事にすっきり。
この部屋を見る限りでは、ちょっとすっきりしたくらいの変化にしかみえないけれど、後は大物だけだから、引っ越し当日で十分ってところだ。
机に座って、読みかけの小説を手にとる。どのくらいたったのか、前かがみになった背中を伸ばしながら、窓の外を見ると香也が門の外に立っていた。

やっと言う気になったのか。そう思って窓の外を見ていると。
香也の足は外を向けて。って行っちゃう気なの? 私はすかさず携帯を取り出して香也にメールを打つ。着信したメールをみてこちらを見上げる香也。
今日という今日は香也の口から聞かせてもらいますからね。
私はほくそ笑んで玄関へと向かったのだった。