贅沢な願い事

束の間の

「なーに目瞑ってるんだよ」
それは率直な疑問だった。
俺の腕の中にいるといっても過言ではない香也。
先程から目尻に皺を寄せながら目を閉じている。
斜め上から見る香也の顔はちょっと膨れたようなそんな顔。
もしかして、怒っているのか?



「と、特に意味は……」

どきまぎしながら答える香也にも思いっきり壺だ。
何より、この香也の頭から香る香りだけでも相当の、あれだ。
思いっきりカーブに差し掛かると後ろの乗客が俺の背中に押し寄せてくる。
俺が引っ張ってきてしまったからには、香也を押しつぶす事なんて出来るはずもなく、両腕にありったけの力を込めて、ドア横の手すりを握りこんだ。
香也も流れに逆らおうと必死になったようで、咄嗟に俺のスーツの裾を掴んだんだ。
何気ないその仕草。単に電車に揺られないようにしているだけなのに、俺の頭の中は勝手に脳内変換。
香也が俺を頼ってくれているようなそんな気持ちになった。
カーブの揺れが治まると慌てて、パッと手を離す香也。
俺のスーツの裾を引っ張って
「ごめん、皺になったかも」
と。
マジこれ最高かも。


しかし、幸せな時間はあっという間だ。
さっきまで、香也を待っているあの時間は俺だけゆっくりの時間が流れているって思っていたのに、今は真逆だ。俺だけ時間の流れが猛スピードで過ぎていっているんじゃないかと言うほど、あっけないものだった。
最後のブレーキ。
甲高いその音が鳴り終わると、無情にもドアが開いてしまう。
願う事なら、会社などすっ飛ばしてこのまま何処かに行ってしまいたい。
そう思うのは普通だろ?
なのに香也はというと、ドアが開く間際、電車に乗って初めて俺を見上げたと思ったら

「ありがとね」

そんな短い言葉を残して、ドアが開いた瞬間、一目散に駆けだしてしまった。
俺が何も言う間に……

今しがたまでいた香也の場所がぽっかりと開く。
守るものが無くなったその空間は、俺が腕を下ろしたと同時にあっという間に埋められていく。
階段下、丁度についたせいか、気がつくともう香也の姿は消えていた。
虚しさだけが残ってしまったような、そんな感じがした。
唯一、少しだけ香也の髪に触れた右手の感触。
あの柔らかな香也の髪。
その感触を手に残すように、ぎゅっと握りしめた。
虚しくなんかないだろ、良かったじゃないか。
自分に言い聞かせた。単純な俺は先程の香也の顔を思い浮かべて口角が上がる。
電車の窓に映る自分の顔。
怪しい奴だった。

そんな思いをしたせか、今日の商談はいつもよりスムーズに事が進んだ。
何でも向こうの人が言うのは俺の笑顔が怖かったらしい。
必要以上に笑わない俺が、ニコニコとしているので圧倒されてしまったと。
俺は無意識だったので、良く分からなかったが、結果オーライといったところだろう。

浅沼さんが書類に判を押す間にと総務の子だろう一人の事務員が俺の前にお茶を置いた。
必要以上にかがむと胸元のブラウスが大きく下に空き、下着が見える。
横目でちらりと俺の事を見るという事はきっと計算づくの事だろう。
一昔前ならきっと……
だけど今は不思議なもんで、いくら綺麗な子だからといってちっとも触手が動かない。
どきりともピクリともしない自分がいた。
必要以上の笑顔を見せて

「いただきます」
とお茶に手をつけた。
作法も何もあったもんじゃない。
熱過ぎだ。沸騰したての湯を入れたそのお茶。
これで、仕事が成り立っているのかと思う。
そっちの勉強より、こっちの勉強だろう。
俺はそのまま、目を伏せ、事務員が部屋から出て行くのを静かに待った。
何か俺から言葉を貰えると思ったのか、中々出て行く気配が感じられなかった。
そのうちに、浅沼さんが戻ってきた。
今お茶を入れに来ましたと言わんがばかりに部屋を出て行く事務員。
「結構、人気があるんですよ」
なんて、俺の機嫌が良いのでそんな事まで話しだす始末。
心の中では
二度と来たくねえよ
と悪態付いていた。
そんなそぶりを見せる事なく、勿論事務員の事など触れもせず、丁寧にお礼を言ってお辞儀をすると書類を受け取り、その会社を後にした。
思いのほかスムーズに行った商談、会社には予定より早目の昼前に着いてしまった。

「徳山さーん、お帰りなさい。上手くいったそうで、やっぱりさすがですね」
猫撫で声は森山だ。
ともすればさっきの事務員と変わらないようにも見えるが、さっきの奴と違うのはきちんと作法が身に着いている事だろう。うちの会社に来る客にもこいつの入れるお茶は評判だった。
ふと考える、香也はどうなのだろうかと。

「徳山さん?」
怪訝そうな顔をした森山の顔が目の前にあった。
この後に及んでまた妄想してしまった、森山が香也だったらいいのにと。
知らぬうちに頬が緩んでいたようで

「ね、行きましょうよ」
そういって俺の腕を取った森山。
近くの席の同僚に揶揄を入れられて、どうやら昼食に誘われていたらしい事に気がついた。

さっと手を引きはがし
「俺これ仕上げなくちゃだから」
とさっきの書類を振り上げた。
何だかぶつぶつと言っていた森山がいなくなって静かになったフロア。
いつの間にかなっていた昼休み。
周りを見渡すと、まばらに何人か残っているだけだった。

ちょっと気を抜くとすぐ香也の事を考えてしまう俺がいた。
もう限界だよなぁ。
抱きしめたい、こうきゅーっと。
あー、まただよ、この妄想。

本当はもっと時間を掛けたかったけど。
だけど、今日の香也を見ていて思ったんだ。
もしかして、俺の事意識してるんじゃないか? って。

あと1回。
それとも次が勝負か?

そんな事ばかり考えてしまう俺だった。