ずっと

懐古

あの街灯の下はもう公園の入り口だ。
大きく深呼吸をして、息を整える。
落ち着け私。
一歩踏み出す度にあいつに近づいて行くんだと思うと、心なしか足も震えているよう。
とうとう、公園の入り口に着いてしまった。
この中に……
そう思うと、ちょっぴり怖くなって足が止まってしまった。

何度も左手の薬指の指輪をさする。
大丈夫、大丈夫。
今日が私の失恋記念日になったとしても、新しい私が生まれる日なんだ。
自分に言い聞かせる。

そうは言ってもちょっと長過ぎた想い。中々心の準備が出来ない私がいた。


「いつまで、そうしているつもりだよ」

シーンと静まった遊歩道に、低い声が響いた。
ゆっくりと後ろを振り返ると「よっ」と手を挙げる高野。

「よっ」
私から出た声はひょろりと情けない声で、高野は大口を開けて笑い始めた。
あの頃のなんら変わりない高野の笑い声。それだけで胸が締め付けられそうになる。
あぁ私はこいつに会いたかったんだ。今更ながらに焦がれる想い。
だけど、高野にはもう……そんな想いを悟られちゃいけないんだとばかりに、一度頭を振ると

「そんなに笑う事ないでしょ、感じ悪ぅ〜」
と負けじと大きな声を返した。

すると高野は、頭を掻きながら私に歩み寄ってきた。

「本当はこないんじゃないかと思った」
と真剣な顔。

「何よ、自分から誘った癖に――」
そう話し始めた私の言葉を高野が遮った。

「場所を移そう」
と。

道の反対側には、高級そうなセダン。
高野はその車に近づき助手席のドアを開けると
「どうぞ」
とエスコート。

「だって、高野、お酒飲んだんじゃ」

「飲んでねえよ。ほれ早く乗って」
戸惑う私を尻目に高野は余裕の顔。何だかちょっとくやしかったり。
だって、私はこんなにドキドキしているというのに。

見た事のない高野の相手に心の中で「ごめんなさい、今日だけだから」と謝って私のいるべき場所でないその席に足を踏み入れた。

「ちょっと走るけど、遅くならないからいいよな」

いいよななんて、もう決めている癖に。

「ええ」
何処に行くの? なんて陳腐な事は言わない。高野と一緒だったら何処だっていい。それが本音なのだから。

何かを口にしたら、聞きたくない事を聞いてしまいそうで私は口を結んだ。
高野も何かを考えているのか、只前を見据えているだけ。
車から流れるように移る町のネオンを眺めていた。

聞こえるのはラジオの音だけ。
優しく響く女性のDJの声。番組の最後の言葉は私に囁いているようだった。

「素敵な夜をお過ごし下さい」

そして最後にリクエストされた曲が流れた。
懐かしい曲だった。
そう言えばこの曲の事でケンカした事があったっけ。
高野は覚えているのだろうか?
私は自然と高野に顔を向けていた。

「コンサート、行きたかった?」

真直ぐ前を向いている癖に。私の考えている事を見透かされたみたいだった。

「行きたかったよ。ってあの頃何度も言ったでしょ」
もうずーっと前の話。
一緒に行こうって、言ったのは確か高野の方だ。それなのに、コンサートが近づいたある日、この曲を聞いていた時突然、やっぱやめようぜ、そう言ったのだ。

「悪かったな、でもお前も悪いんだぞ、俺の前で……」

「俺の前で、何?」
私が悪かったっていうの?

「今更か――」
一旦言葉を区切り、高野は事の顛末を話してくれた。

「この英語の曲、俺も初めは良いなと思った、でもお前があんまり良いっていうから歌詞訳したのを見たんだ。女がさ、他の男の事が気になって別れるって書いてあった」

私にとったら突拍子もない事で、思わず口をあんぐりとしてしまった。
それって嫉妬? もうずっと前の事なのに昨日のように思い出せる、あの時の高野の顔。
何だかくすぐったくなる。

「そうだったんだぁ」
そんな何の気なしにつぶやいた私に降ってきた言葉。

「まさか、な」
高野の言葉がそこで途切れた。懐かしい曲がながれる車内。
高野も私もそれ以上会話をする事なく、視線も合わさないまま夜の高速を走り続けた。

段々と賑やかになってきた街並み。
そこは県内でも有数の繁華街。高野は迷う事なく、ある一件のホテルの前に辿り着いた。

「ここ、夜景が綺麗なんだ」
そう爽やかな笑顔なんて見せて。

「楽しみ」
私は余裕の振りして、笑って見せた。

高野は車を預けると、ちょっと待っててとホテルのロビーを走り抜けた。
大理石が敷き詰められた豪華なロビー。ソファも飾ってある絵画も一目で本物だと解るほど。
ここが、有名なホテルである事は知っていたが、中に入るのは初めてだった。

「お待たせ」
そう言って、エレベーターに促される。
目の前の扉が開かれ、2人並んで乗り込んだ。
高野は最上階のボタンを押すと、ふーっと長い息を吐いた。

緊張で張りつめた空間。心臓の音が聞こえてしまうのじゃないかと心配してしまうほど。
そして開かれたドア。
目の前には大きなガラス張りのバーがあった。

こんな素敵な場所で飲むのは久し振りだった。
あちらこちらのテーブルで、揺れるグラス。
さっきの居酒屋と比べてはいけないって思うけどそのギャップが激しくて。
思わず、自分の全身を見まわした。これで大丈夫よね、と。

「亜子、行くぞ」
ウェイターに案内されて、カウンターに。

「テーブルの方が良かった?」
なんて、高野は言うけれど、私は場所なんて関係ない。隣に高野さえいればいいのだからとさっきと同じように心の中だけで答えてみる。自己陶酔もいいとこ。そして私の可愛くない口が

「別に何処でもいいわよ」
なんて澄ました声でそう告げる。言葉自体は間違ってない。もう少し言葉を足したら全く違う響きになるのに。『貴方と一緒なら』って言う言葉。

私達が並んだのはカウンターの端。
目の前にやってきたバーテンダーが静かにお辞儀をするとすーっと出されたメニューリスト。
高野はそれを受け取ると、一旦バーテンダーを手で制した。


すると直ぐに、まだ何も注文していないにも関わらず、私の前に置かれた細長いグラス。
細かい泡がグラスを上って行く様に思わず見とれてしまった。
一瞬なんで? と高野に視線をやると、高野は黙って大きく頷いた。

まさか、覚えていてくれたなんて……
一度だけ行った、ちょっと大人の雰囲気のするショットバー。
このシャンパンに偉く感動してしまった私。まだ大学生だった高野とはその一回だけしかシャンパンを飲んだ事がないというのに。何か既に泣きそうかも。

高野がグラスを手に取って、軽く揺らした。
私もグラスを手に取って同じ様に軽く揺らす。

そして、静かにグラスが合わさった。
高く澄んだ音色の余韻。私の胸に痛いほど響いた。