迷いみち

36話
「思ったより元気だったわよ」
顔が強張りそうになるのを感じながら、努めて笑顔を張り付けた。
大丈夫笑えているわよね、私。

「俺、明日時間あるからちょっと覗いてこようかと思うのだけど」
恭平の言葉に私は財布から回数券を取りだした。

「じゃあこれ使って。病院まではバスも頻繁に出ているから。場所はね――」
電話の横に置いてあるメモ帳を手に取り、病院名を書くとバス停の位置を説明した。

「母さんも一緒に行く?」
遠慮がちに聞かれたその言葉に

「お母さんは今日行ったからいいや。ちょっと疲れちゃって」
そう言うのが精いっぱいだった。
回数券を破って私に返そうとする恭平に
「母さんはいいから、持ってて」
何でそんな事を恭平に言ってしまったのだか、不用意な言葉だと言ったそばから後悔した。
恭平は
「じゃあ、晃平にも聞いてみるよ」
と指先に回数券を挟んでひらひらと揺らす。
笑って言ってくれているのが救いだ。

「宜しくね。コーヒー淹れるけど恭平も飲む?」
洗い籠の中、子ども達が片付けた食器は水滴もすっかり落ち渇ききっていた。
同じ部屋で食事の用意をしている事にも気がつかなったなんて、よっぽどぐっすり寝ていたのだろう。

「宜しく、きっと晃平も飲むと思うから淹れてやって」

「了解」
ヤカンを火にかけコンロに背中を向ける。
まだ少しぼーっとする頭で食器棚に並んだマグカップを見つめる。
我に返り三つのマグカップを取りだすとその奥に夫のマグカップが一つ残された。
夫がこのマグカップを使ったのはいつが最後なのだろう。
休日に夫があまり家にいなくなって随分と経つような気がする。
夫と別れたところで、今の生活とあまり変わりがないのかもしれない。
寝室のいびきが減るだけなのかも。

仕事見つけなくちゃだよね。
大学受験や高校受験を控えた息子達。
お金はいくらあっても足りないくらいだ。

大丈夫、私には息子達がいる。
頑張れない事なんて無いんだ。
マグカップを持ったまま立ちすくんでいた私の手に恭平の手が伸びた。

「お湯沸いたから」
いつの間にか沸騰していたヤカンの湯。
私からマグカップを取り上げた恭平が慣れた手つきでコーヒーを淹れる。

「晃平はおこちゃまだから、牛乳半分だな」
なんて笑う恭平にどんなに救われている事か。
本当に駄目な母親だ。

コーヒーを淹れ終わった恭平が
「晃平呼んでくるから」
と部屋を出た。
椅子に座って淹れたてのコーヒーを啜ると少しほろ苦くて、少し優しい味がした。

じわりと涙が浮かんでくるのが解った。
昨日今日と数年分の涙を流しているみたい。
子どもの前で泣いちゃいけないと袖口で涙を拭った。
丁度その時リビングのドアが開いて

「母さんおはよう」
とおどけた晃平の声。

「お帰り晃平。おはようはないでしょ」
自然と笑えた。

そうこの子達がいればいいじゃないか。
本心からそう思う私がいた。

三人でテーブルを囲み、他愛ない話しをする。
部活の合宿、塾の合宿の話。
時折冗談を交えながらの二人の話しは楽しくて、ずたずたになった私の心を解きほぐしてくれるようだ。
今朝電話をした時、あれほど気に掛けていた晃平が父親の事を聞かないのは、もしかしたら恭平が話してくれたからなのかもしれない。

二杯目のコーヒーを飲み終えた恭平が時計を見上げ立ち上がった。

「少しは顔色良くなったけど、母さんまだ本調子じゃないだろ? 親父が倒れた事や電車で遠出して疲れてるんだよ。今日は早く休んだ方がいいって」
そんな恭平の言葉に晃平も同調した。
「そうだよ。母さんまで倒れたらシャレにならないからな」
そう言って空になった私のマグカップを持ち上げるとキッチンに行きかけ、振り向くと言い忘れていたよとばかりに
「そうそう、風呂も入ってるから」
とニカっと笑う晃平。
まだまだ子どもだなんて思っていたのに。
私の方が子どもみたいだと思ってしまった。

熱めの湯に浸かると大きく息を吐いた。
身体の中の毒を吐きだすように深く。

昨日から本当にいろいろな事がありすぎた。
きっと一人だったら、こんな風にお風呂にだって入れなかっただろう。
そんな子ども達の為にも自分が今すべきことを考えなくてはならない。

夫が帰ってくるまでの時間ゆっくり考えてみよう。
夫を目の前にした時、落ち着いて話せるように。
押し殺してきた自分の気持ちを言えるように。
綺麗さっぱりとは言わないけれど、そうしなくては前に進めないのだから。

そう考えたら少し気持ちが楽になったような気がした。

夕方寝てしまったせいなのか、風呂に入ったにも関わらず中々寝付けなかった。
ベットのサイドテーブルに置いた携帯に自然と目が行った。

私達にとって出来過ぎともいえる優しい息子達を裏切ろうとしたのは私も同じなのだ。
ズキリと胸が痛んだ。
自分のした事をこれほど後悔した事はない。
アラケンに頼るのは間違っている。
好きになるだなんてそんな事あってはならない事だったのだ。

そっと携帯を開き、今では見慣れてしまったそのアドレスを画面に出すと迷う事なく『消去』のボタンを押した。

『消去しました』
その文字が浮かんできて寂しい気持ちがある事は紛れもない本音。

特にアラケンを信頼しているだろう恭平。
こんな事を知ったら恭平はどれほど悲しむだろう。
絶対してはいけない事をしたのだと今更ながら痛感した。

アラケンへの気持ちを封印するのではない。
このアドレスのように削除するのだ。

あの子ども達の笑顔だけは取り上げちゃ駄目なのだ。
今の時点で手遅れの域に入っているかもしれないけれど。

その晩、朝方近くにやっと眠りいついた私は夢を見た。

皺がれた先生の声が響く校庭で、いつまでも遊び続ける小学生の私がいた。
帰るのが名残惜しくて先生の声を聞こえないふりをして。
沢山の同級生が出てきたけどそこにアラケンの姿はいなかった。

目覚めた時、これでいいんだ。
と一人呟く私がいた。