迷いみち

35話
病室に入ると夫は寝ていた。
時折顔を歪ませるのは傷口が疼くからなのだろうか。

洗濯物を持参した紙袋に入れ丸椅子に腰かけた。
やつれた顔――
夫が何を考えているのかなんて解りっこなかった。
会話らしい会話も無かったこの数年間。
ただ、同じ家に住むだけの同居人。
紙切れだけの夫婦関係。
子ども達も大きくなった今、私達が一緒にいる意味はあるのだろうか。

こんな風に波風がたつ生活をするなんて、考えもつかなったのはいつまでだったのだろう。
穏やかに年を重ねていくものだとばかり思っていたはずなのに。

本当に人生、何が起こるかなんて解らないものだ。

昨日の事は夢じゃなかったのだろうか、いや夢だと思いたい。
アラケンの事もそうだが、唐沢さんの事。

夫の子どもを身籠った。
彼女は確かにそう言ったのだ。
その時の彼女の顔が浮かんできて胸が苦しくなる。
吐き気にもにたその感覚。
これ以上考えたくない、認めたくないと混乱する脳内。
別れるつもりだったのに、彼女の言葉を聞いてこんなにも苦しい思いをするのは、夫への情だけなのだろうか。
裏切られたと決定づけられた悔しさからなのだろうか。

認知しなくても、産むだけでいいと言っていたけれど、子どもを育てる事は生半可な気持ちでは出来やしない。
唐沢さんは夫を欲しいとは思わなかったのだろうか。
彼女は夫が私と別れるつもりはないと言っていたけれど夫の本心はどうなのだろう。

頭を抱えベットの淵に身体を預ける。
何も考えたくはない。
何も……

「来ていたのか」
呟きともとれる夫の声に顔を上げた。
夫は私の視線に耐えられないとでもいうように、顔を逸らした。

――そうやって逃げられるとでも思っているの?――
心の中で悪態をつく。
それくらい言ったって罰は当たらないだろうけれど、まだ手術をしたばかりの夫を責め立てるのは良心が咎めたのだ。

「悪かったな」

夫の放ったその一言にどう返せばいい?
何を指しての言葉?

病院に来た事なら、私のするべき事だろう。
だけど、それが彼女の事だとしたら?
簡単に答えられるものじゃない。

「知らせを聞いた時は本当に驚いたわよ。風邪も引かない貴方が倒れたなんて」
私は夫の言葉を私への労いの言葉との解釈に決めつけた。
もし、沢山の事をひっくるめての言葉だとしたら、そんな一言に集約されていいものじゃないから。
私達には話し合いが必要なのだ。
今までお互いを見て見ぬふりをしてきた私達のつけなのだ。

「ああ」
夫はそう短く言葉を返すと唇を噛みしめて眉間に皺を寄せた。

それから黙りこんだ夫をみてもしかしたら、この騒動の顛末を話すつもりなのかもしれないと思った。
自分の中で悶々としているのも確かなのだが、彼女から聞かされた夫との事。
気持ちの整理もつかないまま、また同じ事を夫から聞かされる事がどんなに私を陥れる事になるか、自分が壊れてしまうのではないかという恐怖が突然襲ってきた。
夫の本心を聞きたいとは思うけれど、今は聞きたくないと思ってしまったのだが。

「会ったんだろ?」

夫らしいと思った。
言葉少ないその一言。
私に何を言わせたいのだろう。
足の先から血が逆流してくる。
怒りで身震いしそうになる身体を両手で押さえこんだ。
廊下を忙しなく行き交う看護師や見舞人、こんなところで泣き叫びたくない。
昨日ナースステーションで見た看護師の顔が浮かんできた。
貴方は解らないでしょう?
私がどんな風に見られているのかを。
これ以上みじめな自分をさらけ出したくない。
それはちっぽけなプライドなのかもしれない。
こんな風に自分を抑え込む事を教えてくれたのは他ではない夫である。
冷静になれと自己暗示を掛け

「会ったわ。その事は今話さなくてはいけない事? 退院してからでは駄目なの? 勿論それは帰る家がうちだと言う事が前提なのだけれどね」
多少の嫌味は許容範囲だろう。
本当は煮えくりかえるくらいの腹の内。
朝起きてから、自分のしたい事が入れ替わってばかりいる。

今日、若しくわ近日中にこの病室で話して終わりにしてしまおうという気持ち
退院してからじっくり話合うべきだという気持ち

でも、自分の道は認めたくないけれど決まっているのかもしれない。
いくら、子どもが欲しかっただけだと言われても、恋愛感情が無かったといわれても、何処に夫の不倫を容認する妻がいるのだろう。
馬鹿にされるのも程がある。
私と別れたくない?
私の気持ちは?
そんな夫とどんな気持ちで余生を過ごせばいいの?
話し合いをしたところで、私の気持ちの行き場は収まらないのじゃないだろうか。

やりなおす?
何事も無かったように過ごすなんてきっと出来やしない。

整理がつかないのじゃない。
解らないのじゃない。
悔しくて、情けなくて――そして一度は決心したはずなのに一人になる事への恐怖なのだ。

私がどんなに苦しんでいるのか夫には解らないらしい。

「責めないんだな。罵られて当然だと覚悟はしていたが、お前はもう俺の事なんてどうでもいいと思っていると言う事か」

全身を覆っていた自分を抑え込む感情が一気に決壊した瞬間だった。

「馬鹿にしないでよ。私が――私がどんな気持ちで――」
言葉が続かなかった。
サイドボードに置いたバックを掴み取ると、悔しくて溢れだした涙を拭う事なく、病室を駆けだした。
立ち上がった時、ひざ裏に当たった丸椅子が派手な音を立てて転がったけれど構うもんかと振り向きもしなかった。
廊下ですれ違う人達に怪訝な顔をされたけど、もうどうにでも思ってくれと一刻も早くこの病院から離れたかった。
ちっぽけなプライドなんて無かったみたい。

話さなくちゃいけないってそれだけは思っていたのに。
こんな風に逃げるように帰るつもりなんかなかったのに。

電車に乗っても動悸は収まらなかった。

何で私があんな事言われなくちゃいけないの?
私だって、言いたかったわよ。
怒鳴りつけたかったわよ。

何で、何であんな事言われなくちゃいけないのよ。
家に辿り着いても涙は留まる事なく溢れ続けた。

顔を見たくない。
話しもしたくない。

ソファで膝を抱え泣き疲れた私は眠ってしまったらしい。
夕飯の時間をとっくに過ぎたその時間、恭平に起こされた。

『風邪引くよ』と。
気が付けば私の身体には毛布が掛けてあった。

その優しさにまた涙が溢れそうになる。
「お帰り、ごめんね。夕飯すぐ作るからちょっと待ってて」
そう言って立ち上がろうとしたら

「さっき晃平とラーメン食った。俺達の事は大丈夫だから。それより父さんどうだった?」
心配そうに私の顔を覗きこむ恭平の顔に心臓がドキリと音を立てる。
脈が忙しなく打ち始めるものの平静を保たなくてはと必死に顔を作り、小さく一つ息を吐き、改めて恭平の顔を真直ぐに見据えた。