涙の訳

涙の訳

「終わった」
手に握りしめた受験票。
何度も番号を確認してしまった。
張りつめた緊張から一気に解かれた私は何とも言い表せられないこの気持ちに戸惑っていた。


肩を叩かれて、意識がゆっくりと戻ってくるのを人ごとのように感じながら首をひねって後方を見上げる。
同時に周りの喧騒が耳に入ってきた。

大きな掲示板の前で、泣きそうな顔をした私を困ったような顔で見つめるあなた。
私の肩にポンと手をかけて、あなたはゆっくりと飛び飛びの番号が書いてあるボードの前に進んでいった。
覚えていてくれたんだ、私の番号。
受験前から散々祈っててと、しつこく言ったから、当たり前か。

毎日毎日見ていた広いこの背中。
こみ上げる涙を抑えることは私には出来なかった。

「びっくりさせるなよ。ちょっと焦った」
こういう顔を破顔一笑というのだろうか。
いつもの細い眼が更に細くなって目尻が下がって。
コーヒーの飲みすぎだと言い訳している薄っすらとくすんだ並びの良い歯。
その歯が口角の上がった形の良い唇から少しだけ見える。

その顔を見れば見る程、溢れ出る私の涙。

「全部出し切っちゃえば」
おどけながら、さりげなく肩に手をまわしてあなたはそう言ったの。

幸い、泣いているのは私だけじゃなくって。
嬉し涙、悔し涙。
いろいろな涙が流れていたから誰も私の涙に目を向ける人はいなかった、そう思っていた。
実際あなたもそう思ったんだよね。


私の涙。
あなたにはどんな風に映ったのだろう。


大好き


口には出せずに心の中で何度も叫んでいた。

高校2年の終わりから毎日のように通い続けた塾であなたを知った。
地元の国立大学に通う大学生のアルバイト、聞いたわけではないのにたまたま隣に座った誰かが教えてくれた。
何とも思っていなかったはずなのに。
チョークを持つ手に見とれてしまって、質問を聞いていなかった私を笑ながら
「先生の字があんまり綺麗だからって見とれないように」
って言ったあなた。
お世辞にも綺麗とは言えない字に見とれるはずなんてないのに。
無邪気に笑うあなたの顔が焼きついて離れなかった。
あれが私の恋の始まりだった。

緊張すると少しだけ上ずるあなたの声。
低い声に憧れて、お風呂で練習した事があるって言ってたっけ。
でも本当は憧れじゃなくて、いまどきの高校生になめられないように練習したんだよ、って補習の時にこっそり教えてくれた。
その時のあなたの顔が頭から離れなくて、受験生なのに私の頭はあなたのことでいっぱいになってしまったんだ。

私はそれこそ台風が来たって、雪が降ったって毎日塾に通った。
あなたに会いたい一心で。

難しい問題が解けるとあなたは嬉しそうに笑ってくれた。
勿論、それは一生徒に対してのもので、私だけじゃなかったけれど。
誰よりも褒めて貰いたくて、必死で勉強した。
あの笑顔を独り占めしたいと思いながら、必死で。

睡眠時間を減らすことは、なんてことはない。
あなたに褒めて貰えるならば、「辛い」だなんてそんな事は思った事がなかった。
受験生で良かったとさえ思っていた。

だけど、それも今日でお終い。
そう私は受かってしまったから。

明日からはもうあなたに会うことは出来ないんだと思うと、どうしようもない焦燥感に襲われる。
受かってあなたに
「良く頑張ったな」
って言ってもらいたかったけれど。
本当は受からなくて
「来年こそは頑張ろうな」
ってもう一年あなたの背中を見つめていたかったというのが本音なのだから。

合格を確認した大学から2人並んで校門を出て、近くにある公園のベンチに腰かけた。
「落ち着いた?」
心配そうな顔で私に声をかけるあなた。

最後の一滴になって欲しいと願う涙をハンカチで拭って、思いっきり首を縦に振った。

「良く頑張ったな、特別にご褒美だ」
いつの間にか手にあった暖かい缶ココア。
かじかんだ手に缶ココアがすっと馴染む。
なによりあなたから貰ったということが尚更暖かくさせるのだろう。
するとあなたは、開けるのが勿体なくて中々手が出せない私からココアを取り上げて、なんの迷いもなくプルトップを引き上げた。
思わず
「あっ」
と声を出してしまった。
「もしかして、ココア嫌いだったっけ?」

最後の思い出になるから取っておきたかったとは言えるはずもなかった。

「手がね、冷たいからもう少し温めようかなって思っただけだよ」
咄嗟にでた嘘だった。

「そっか、ごめんな」
「大丈夫だよ、ありがとう」
そういってココアを口にした。
甘く、暖かいココアは私の体中を巡っていくみたい。
あなたが買ってくれた思うだけで、いつもの何倍も美味しく感じられた。

無言でベンチに座っていた。
あなたは何も言わず、私も何も言わず。

静寂を破ったのはあなたの携帯だった。
私の顔をみて
「ちょっとごめん」って言って電話に出たあなた。
かすかに聞こえる声は若い女の子の声だった。
私は平然と何も興味はないよといった顔を作りながら、誰も乗っていないブランコを見つめる。
本当は気になってどうしようも無いくせに。

「解ってるよ、もうそんな時間?大丈夫ちゃんと行くから、すぐ近くにいるから待ってろって。……おう」

そういって、パタリと携帯を閉じた。
あなたの声が頭の中をこだましていた。
特に最後の”おう”という砕けたもの言いに普通ではない仲なのだと悟ってしまった。
私の恋も受験と共に終わってしまったと感じた瞬間だった。

平常心を装って
「待ち合わせ?だったら早く行ってあげなくちゃだね。今日はありがとうございました。そして、今までお世話になりました。……先生」
ちゃんと言えたよね。
笑ってるよね私。

「じゃあ、本当に良かったな。お前に会えないのはちょっとさみしいけど、大学生活楽しむんだぞ」
そう言ってあなたはあの背中を見せながら、小走りに公園から去っていった。
公園の出口に差し掛かった時、ちょっと振り返って手を挙げてくれた。

涙が出る寸前、危ないところだった。
あと、3歩あなたが進んでいたら確実に目尻にハンカチを当てていただろう。
私も大きく手を振った。
さよなら先生と。

合格発表というその日。
第一志望の大学に合格したこと。
あなたが見にきてくれたこと。
失恋してしまったこと。
なんとなく、家に足が向かなくて、繁華街を彷徨っていた。