涙の訳

苦いコーヒー

「突然、ごめんなさい。私、城山穂波といいます」

城山……

パズルのピースが埋まった。
初めて会ったあの時から、心の何処かでもしかしたらと感じていたのだと思う。
あの人と同じ名字。

「あれ、兄とあなたですよね」
一度あのポスターのある方向に目をやり、私の顔を見つめる。
無理に笑おうとしてるのだろうか?
唇をぎゅっと結びながらも、口角をあげようとしているそんな顔。

私も似たような顔をしているに違いなかった。
先ほどから頬を伝っていた涙が、引っ込む事なく流れている。
ぎゅっと握った手の甲にぽたり、ぽたりと涙が染みていた。

返事をしなくとも、私の顔を見ればその答えは一目遼前だろう。
穂波と名乗った先生の妹さんは、ゆっくりとさっきまで先輩の座っていた私の隣に腰を下ろした。

私は涙を拭い隣の彼女に告げる。
「前原瑠璃子です。先生には塾でお世話になっていました」
そう、私と先生はそれだけの関係でしかない。
一瞬を捉えたあの場面ではそうはみえないかもしれないけれど、これが事実なのだから。

「無理を承知でお願いしたくて、あなたを探していたのです。兄に会って頂けないでしょうか?」
唐突な申し出に驚き、涙が止まる。

会って頂けないでしょうか?

言葉の上では理解できるが、その言葉が意味する事は理解出来なかった。
夏の終わりの太陽が最後の仕事とばかりに命いっぱい降り注ぐ日差し。
ベンチの上の桜の葉から、私の足元に伸びていく様は、まるでこの手を掴みなさいと言っているように思えた。
心の中では反発する、だって私は振られているんだよと。
はっきりと断りの言葉も貰えなかったじゃないか。
そう、連絡すらこなかったのだから。

しかし、いくら忘れようとしたって忘れる事が出来なかったのも事実。
今だってこうやって、あなたの事を聞くだけでこんなにも胸が苦しいのだから。

「駄目ですか? やっぱり兄に会ってはくれないですか?」
先程と同じように唇を結んでそう告げる。

「何で、私が……」
喉が張り付いて言葉がでない。
そんな私に衝撃的な一言が待っていた。

「兄はあなたを待っていると思うから」

穂波さんは空を見上げてそう呟いた。
私を待っていると。
さっきまで、あんなにも稔先輩の事でいっぱいだったにも関わらず、私の頭の中は既に先生の事しかなくなっていた。
今になって、ほんの少しだけ過った先輩の顔。
どんな気持ちで穂波さんに電話を掛けたのだろうと。
直ぐにでも会いに行きたい。
本音は今すぐにでも。
でも、自分の事で振り回してしまった先輩の事を考えると、そんな事言える訳なくて。

「少しだけ、考えさせて貰ってもいいですか」
本当は考える事なんてちっとも無いくせに、小細工をしている? それとも偽善者?
自分の心の醜さだろう。

「そうですよね、いきなり来て会ってくれって言われても困ってしまいますよね。出来れば良いお返事待っています」
そういって、彼女のだろう携帯のアドレスを書いた紙を握らされた。

来た時と同じように深々と頭を下げて彼女は去っていった。
今のは夢? 彼女が見えなくなったその角を見つめる。
その時になって初めて周りの音が入ってきた。
一気に力が抜けて、ベンチに座り込む。

先生、私会いに行ってもいいんですか?
先生にそっくりな穂波さんの目。
真っ直ぐな瞳を見たら、決して冗談でないことは解りすぎる程。
やっと、大学に来たというのに私は講義に出ることなく大学を後にした。
家に帰れるはずもなく、私が思いついたのは高校生の頃、良く通っていた喫茶店だった。
黒薔薇

エキゾチックな名前のする喫茶店だが、雰囲気の良い普通の喫茶店だ。
マスターはちょっと渋めの感じがする人。
じっくりとローストされたコーヒー豆の香りが店中に広がっている。
初めてこの店に来た時は、高校生には少し敷居の高い店のような気もしたが、
マスターの笑顔と手ごろな値段、そして何より今まで飲んだことのないような香り高い美味しいコーヒーに直ぐにこの店の虜になったのだった。
久し振りに私はその店へと足を向けた。
電車を乗り継ぎ、半年前まで毎日通っていたその駅に降り立つ。
その頃は感じられなかったこの街の雰囲気。
何だか不思議な感じがした。
思えば学校の教室も毎年そう思った。
そのクラスになった時は何とも思わないのに、学年が変わり違う教室になると、以前の教室の匂いや雰囲気が全く違ったような。
変な違和感があったっな、と。

昼過ぎとあって、流石に学校への道には学生の姿は見当たらない。
黒薔薇へは歩いて数分。
強い日差しで薄っすらと汗を掻いた額をハンカチで拭って扉を開けた。
マスターは私と目を合わせると、落ち着いた優しく響く声で
「いらっしゃい」
と声を掛けてくれた。
ここはあの頃と変わらない。あの頃と同じような感覚。
さっき駅で違和感を感じたように、もしかすると…… と思っただけにその感覚に安堵した。
学生の頃は窓際のテーブル席が私や友人達の定位置だった。
「いつか、あのカウンターでコーヒーを飲んでみたいね」
そう言っていた事を思い出す。
迷った末に私はあの頃憧れていたカウンターに腰を下ろした。
今日は私一人。
目の前でドリップされるコーヒーを眺めながら、味わうのもいいだろうと。

正直メニューを見ても味の違いが解らない私は恥ずかしながらも
「苦めのコーヒーはありますか?」
そう告げてみた。

マスターは私の顔を見て微笑むと
「畏まりました。では――」
何か名前を言ってくれたけれど、初めて聞く名前で覚えられなかった。
飲んでみて、美味しかったらもう一度聞いてみよう、そう思ってそのコーヒーを注文した。
苦みのあるコーヒーで頭をすっきりとさせたかったのだ。

マスターはカウンターの後ろに並んである数あるコーヒー豆の中の一つをサーバーで取り出して、
小ぶりのフライパンのようなものにその豆を入れて、軽く回しながら炒り始める。
元から漂う香りに、更に香ばしいコーヒーの香りがプラスされる。
自分の中の燻った思惑を浄化させてくれるような感じがした。
マスターの手は豆を炒り終わると、手回しのコーヒー何とかでゴリゴリと豆を砕いていく
あっという間に粉砕された豆を水に濡らした布のフィルターに入れて、磨きあげられ銀色に輝くポットから適温になった湯を注いでいく。
ゆっくりと円を掻くように。
優しく、そっと湯を注ぐ。
マスターの手は滑らかにその動作を終えた。
私の目の前に、その丁寧に入れられたコーヒーがそっと置かれた。
小さくお辞儀をして、一口啜る。
口の中いっぱいに広がるコーヒーのほろ苦さ。
そんな苦さが今の私にはちょうど良い。
先生に会いに行き、そしてもう一度稔先輩と話をしよう。
私にとってだけの都合の良い話かもしれないけれど、そうすることが一番だと思った。
鞄のポケットに入れた穂波さんのアドレスを出して、自分の携帯に登録した。
名字は入れずに
穂波さん
とだけ入れてみた。
マスターは私に小さなお皿でクッキーを出してくれた。
口元に人差し指を当てながら。
ほろ苦いコーヒーに、チョコの入ったクッキーはとても優しい味がして、
言葉を発していないマスターにも励まされいるようなそんな感じがした。

ゆっくりとコーヒーを味わって、私は黒薔薇を出た。
コーヒーの名前は聞かなかった。
出来れば今度来る時があったならば、マイルドなコーヒーが飲みたいと思ったから。
そう思った私に、マスターの
「またいらして下さいね」
の一言が胸に染みた。

少しだけ心が軽くなった気がした。
帰りに寄った駅のトイレで鏡を見ると、瞼が腫れぼったいのに気がついた。
あれだけ、涙を流したんだ、当然の結果。
今更だとは思うけれど、蛇口をひねりハンカチを水に浸して瞼に添えた。
気休め程度にしかならないだろうけれど、きっと何もしないよりはマシだろう。
この顔で街中を歩きまわってしまった事に恥ずかしさを覚える。
そんな事にさえ気がつかなかった自分。
それだけ、参っていたんだと。

母は気がついたのだろうか?
夕食時も私に話掛けてはこなかった。
ただ単に気がつかなかったのか、それとも敢て話しかけなかったのか。
自分が敏感になっているだけだったのかもしれない、そう思う事にした。
その晩、深夜まで携帯とにらめっこ。
携帯を開いては、閉じの繰り返し。
意を決して、メールに返信を書きこんでは消去の繰り返し。
こんな事ならば、黒薔薇で返信すれば良かったのかもしれない。

一人ベットに腰かけると弱気な私が出てきた。
今更だよ。
稔先輩に思われている方がよっぽど幸せじゃないだろうかと。

そうして、そんな晩を2晩も過ごしてしまった。