涙の訳

大好き

一本道のはずだった駅への道。
あまりにぼうっとしてしまたせいか、住宅街へと入り込んでしまった。
これではいつになっても、家に帰る事は出来ないと道を尋ね大通りへと出て、私はタクシーを拾った。
タクシーのおじさんは、機嫌が良いのか、やたらと話掛けてきて相槌をうつのも億劫になる。

何が面白いのか解らないけれど、話しながら自分の話に笑っているおじさん。
今の私にはどんなに面白い話をしたって、笑う気にもならないというのに。
自宅から離れた場所から乗ったので、まだまだ中間地点。

「すみません、近くに着いたら声を掛けて下さい」
と窓に頭をより掛らせて、軽く目を閉じた。
元々寝ようと思ったわけではないので、目を瞑ったところで眠れるはずもなくて。
話し相手を失ったおじさんが黙ると急に静かになる車内。
タクシー特有の振動が静かに伝わる。
柔らかめのシートは座っているとふわふわし過ぎて居心地が悪い。
行く先を駅にすれば良かったと後悔した。
どのくらいの時間が経ったのだろう、目を瞑っていると街並みが見えないせいで全く見当がつかなかった。
薄眼を開けようとした時に久々におじさんの声。
「ここら辺かな?」
目を開けると見慣れた風景、自宅までの目安にしたコンビニの前だった。
「ありがとうございます、ここで結構です」
私の声でスピードを緩めたタクシーが路肩へと寄って、ハザードランプが点灯した。
一人でタクシーに乗るなんて滅多にない、それもこんな距離を。
思っていたよりも高い金額にちょっと驚いた。
財布からお札を数枚取り出すと、おじさんに手渡した。
おじさんは金額を確認して、おつりを手にとると私の掌にそっと乗せた。そして

「何があったかおじさん知らないけれど、人間笑っていれば向こうから良い事がやってくるもんだ、人生っていうのはそういうもんだと思うよ」
ちょっとおせっかいだったなって、豪快に笑っておじさんは私の前から消えていった。

笑っていれば、向こうから…… か。
私だってそうしたいよ。
折角そう言ってくれたおじさんに悪いと思うけれど、今日はそんな気になれないのも事実。
そう思えたらどんなに良い事か。
複雑な思いのまま、家の門をくぐった。

日暮れにはまだ早いこの時間。
衝撃的な出来事に、頭も体もついていけず、お昼を食べていないというのに全く食欲も湧かない。
一度私の手に渡ったボールペン。
本当に私に渡してくれるものだったのだろうか?
ふてくされていたこの半年、先生があんな事になっていたのも知らずいた自分にも腹が立つ。
偶然、知りえる事になった先生の今。
もし、あのポスターに私と先生が映っていなかったのならば、私は一生知らなかったのだろう。
そんな私はいつまでも、先生の事を心の片隅に置いていたはず。
いろいろな思いが交差して、いろいろな考えが頭の中を巡っていく。
気がついたらいつの間にか外は暗くなっていた。
窓の外のやたらと明るい黄色い月が電気をつけていない私の部屋を照らしていた。
立ちあがって、部屋の電器をつけると眩しすぎる程の明かるさ。
思わず、目を細めた。

私は携帯を開いて、さっき言えなかった言葉を連ねた。
宛先は穂波さん。

――今日はどうもありがとう。明日また寄らせてもらいます――

直ぐに来た返信。
そこには

――こちらこそ、どうもありがとう。是非、お待ちしています――
そう書いてあった。

それからの私は、ポスターに負けることなく毎日大学に通い、その足で病院に向かうという生活に。
一人で行くこともあるが、時間が合えば穂波さんと一緒の時も。
先生のご両親は学校の先生をしているそうで、日中は病院に来る事はないと聞いた。
挨拶するような関係でもないけれど、なんの挨拶もせずに毎日先生のところに来ているのもどうかなと思ったり。
でもその辺は穂波さんが言ってくれているらしく、心配することはなんいもないし、むしろ喜んでいると言ってくれた。
病室にいるときは、先生の横に座って大学の講義の復習をしたり、課題をしたり。
先生に今日の出来事を話してみたり。
すっかり看護士さんにも顔を覚えて貰ったようで、
たまにナースステーションに差し入れがあると、私のところにもお裾わけをしてくれるようにも。
そんな生活がひと月にもなった。

その日はとても良い天気で、思い切って部屋の空気を入れ替えようと、窓を全開にした。
小春日和そんな言葉がぴったり。
心地よい風を頬に感じる。
耳を澄ませば、小鳥のさえずり。
目を凝らせば、赤とんぼの群れ。
視線を伸ばせば、大道りにある銀杏並木のこがね色。
ちらほらと、見える木々の紅葉。

その時、突然すーっと風が吹き私の髪がさらりとなびいた。
窓際においてある花瓶に挿したコスモスも風にそよいで、花びらが2、3枚部屋の中を舞った。

「今日はとっても良い天気なんですよ。目を開けて外を見てくれればいいのに」
なんの気なしに言ったその言葉。
勿論、そう願っている事は確かだった。

いつものように、ベットの傍に丸椅子を置いて座ると文庫本を開いた。
開いた本に柔らかな日があたった。
文庫本に目を落としたその時、空中の散歩を終え、ベットの上に降りてきた一枚のコスモスの花びら。
そっと手を伸ばすと、花びらは掛け布団の上を滑るように床に落ちていく。
布団が少し動いて見えたのは、気のせい?
頭を屈めて、床に落ちた花びらに手を伸ばした時、額のあたりにある布団の裾が少しまた動いた気がした。
風になびいたんだよね。動いて欲しいと願う私にそう見たのだろうとそう思いなおす。

花びらを拾い何気なく先生の顔を見ると、先ほどとは違う。
少し眉間に皺を寄せている!
慌てて、立ちあがる私の膝裏に丸椅子がぶつかってガタンと音を立てて転がった。
だけどそんな事を気にもせずに、先生に近づく。
注意深く見ていると。
軽く薄眼を開けているかのよう。
前に看護士さんが言っていたのはこの顔の事なのだろう。
重たい瞼をちょっとだけ、浮かしたようなそんな顔。

もしかして、眩しかったのだろうか?
そう思った私は窓を閉めて、カーテンを引いた。

そしてもう一度、先生の顔を見ると今度は、ちゃんと両目を開いているではないか。
その瞳を見るのも、久しぶりだった。
先生の顔を良く見たいのに、目の前が滲んで良く見えない。
みっともないと思うけれど、ティッシュを取る間も惜しい私は左の腕でガシガシと子供のように涙を散らした。
ナースコールを押す事を忘れ、先生に話し掛ける。

「解りますか? 今日はとっても良い天気なんです」
ほんの少しの期待を持ちながら、話掛けるも
返事はかえってこなかった。
そして、またゆっくりと先生の瞼は閉じていった。
ぬか喜びだったと落胆して、肩を落とす。
大きなため息を一つ吐き、腰を屈めて丸椅子を元の位置に戻した。
もう、本を読む気になれなかった私は、鞄に文庫本をしまった。
気分転換にコスモスの水を替えようと窓際に立ち花瓶を手に取る。

目の錯覚? 一瞬そう疑ったのだが、再び先生の瞳がそこにあった。
花瓶を置き、今度は真っ先に聞きたかった事。

「先生、私が解りますか?」
すると、見逃してしまいそうなほど微かに顎がひかれた。
最早、私の涙は腕などでは拭いきれない程、堰を切るということはこの事だと言わんばかり。
例えは綺麗ではないけれど、まるでダムが決壊したような涙。
振られることなんて、たいしたことなんてない。
先生が生きていてくれさえしたら。

微かに動いた布団を捲り、ガタガタと震える両手で先生の手に触れた。
指先に力をいれているのだろう。
短く整えられた爪が私の指の間を掠った。
私は両手で先生の手を包みこんだ。
ゆっくりで良いんです。と言葉を添えた。

その時に初めて気がついた。
誰か呼ばなくては。
片方の手をゆっくりと離し、枕もとに置いてある、今までは無用だったであろうナースコールに手を伸ばした。

「もう少し、夢ならもう少し2人で……」
消え入りそうな程小さな声だった。




「瑠璃子〜今日こそサークル顔出すでしょうね〜」
翔子の大きい声が中庭に響き渡る。
私も負けじと
「ごめーん。今日からリハビリが始まるの〜。みんなに宜しく言っておいてねー」
憮然とする表情の翔子に手を振って歩きだす。
だけど、一本でも早い電車に乗りたくて、知らないうちに小走りになっている私。

あそこにいけば、あなたのあの笑顔が私を迎えてくれる。
これが、急がずにいられるだろうか。

あれから、今まで寝ていたのが嘘のように回復していった。
ずっとベットの上で寝ていたのですっかり落ちてしまった筋肉。
今日から、リハビリ室で歩く練習を始める。

「来年は桜の下を一緒に歩こうね」
そう言ってくれたあなた。
逃してしまった時間を惜しむように2人で時を過ごしている。
沢山流した涙は無駄じゃなかったよね。




「涙ばっかりみている気がして……」
切なそうな顔を浮かべるあなた。




「私が流した涙は、ほとんど先生のせいなんですけれど」
そんな意地の悪い返事をしてしまった。

「涙の訳か……それ殺し文句だぞ」
はにかんだ笑顔と共に私の頭にあなたの唇が落ちてきた。





恥ずかしくてうつむいた視線の先、私の胸ポケットには、あの頃のあなたのようにシルバーのボールペンが穏やかな日の光を浴びて光っていた。



「大好き」
顔を上げ、あの時に言えなかった言葉をあなたの耳元で囁いた。