涙の訳

優しい声

「前原さん」
そう呼ぶ声が聞こえた気がした。
気のせいだよね。足を止める事なく前に進む。
するともう一度
「前原さん」
と呼ぶ声が。私は思い当たる人もいないので、きっと同じ名前の人がいるのだろうなとあんまり気にとめなかったのだが。
たったったっとリズミカルな足音が近づいたと思ったらいきなり肩を掴まれた。
あまりの驚きに、身が縮まる。私は振り返る事も出来ずに固まった。
大きく心臓が跳ねたその時。
「結構歩くの早いんだね」
とあの優しい声がした。
「先……輩…?」
どうしてここに?
振り返った私にあの笑顔だ。
「そうかな、とは思ったけれど、まさか本当に帰るとは思わなかったよ。店員の声が聞こえて慌てて振り向いたけどもう姿は見えなくて」
よほど変な顔をしていたのだろう。先輩は
「この時期は特に危ないからさ、帰るんだったら声掛けてくれれば良かったのに。送っていくよ」
と私の肩に手を掛けて、駅に向かって並んで歩きだしてくれた。
ほっとした自分もいたのだが、大丈夫だったのにと思う気持ちもあった、でもここまで追いかけてくれた先輩にそれはないよねと思いなおし
「ありがとうございます」
と余計な事は言わずにお礼を言った。

先輩は頭を掻きながら
「本当は、家まで送ってあげたいところだけど生憎慌てて出てきて、財布も上着も店に置いてきたままなんだ。だから駅までな」
って。そんな先輩に申し訳ない気持ちとちょっと甘酸っぱい気持ちが交差していた。
本当に優しい人なんだと。先輩は今日の雰囲気は特別だよ、だからこれがサークルの雰囲気だって引かないようにね。って。
冗談なのか本気なのか、今度のサークルの集まりに迎えに行くから一緒に行こうよって誘ってくれた。
きっと社交辞令なんだろう、無碍に断るのも失礼だと最近得意になった曖昧な笑みを返した。
無事に駅に着くと先輩はジーンズのポケットから携帯を取り出した。
「地元の駅に着いたら家の人に連絡して迎えに来てもらったほうがいいよ。俺が送ってあげたいけれどさっきの通り一文無しだから」
空になったポケットを翻して、おどけて笑った先輩。そして。
「ちゃんと家に着いたか心配だから、家に着いたらメールくれると安心するんだけど……」
パタンと携帯を開いてアドレスを表示した。
「あっもしアドレス交換するのが嫌だったら、俺の携帯番号教えるから非表示で1コールしてくれてもいいからさ」
と付け加えた。初めて会ったに等しい人だけど、先輩なら安心出来ると思った。私は携帯を取り出して
「はい、私が受信でいいですね」と赤外線のページを表示させた。
先輩はほっとしたような顔をした後、じゃあと携帯をくっつけてアドレスを送ってくれた。
「本当にすみませんでした。本当は一人で歩くのちょっと嫌だなって思ったので嬉しかったです」
と少しだけあった気持ちを言ってみた。先輩は良かった、ひょっとしたら迷惑だったかなって思ったんだけどって。
さようならと言うと後ろを振り返らずに改札口へと向かった。

電車に乗って一人考える。
もし、あなたに会っていなかったらきっと魅かれていただろうなと。
まだ引きずっているあなたへの想い。
今日だってずっと考えていた、あなたもこんな風に大学生活を送っているのだろうかと。
あなたに会うすべはないと思っていた、違うな思い込んでいたけれど一つだけ可能性はあったのは解っていた。
あなたの通う大学へ行けば……。
だけど塾ならいざ知らず、大学へはどうしたって行けなかった。
あなたの意思で私に連絡をしてこなかったのだから。
だから、私が大学まで会いに行っても迷惑にしか思わないだろうから。
電車のドアに向かって立っていた私。
ガラスに写った私の顔は情けないほど歪んでいて、頬には一筋の涙が伝っていた。
まだ、駄目なんだと思い知らされた気がした。

地元の駅に着いて、本当はバスで帰るつもりだったけれど並んでいる人の中に酔っぱらっている人が目についた。
先輩の言う通りかもしれないと、携帯を取り出し家に連絡をした。母が直ぐに迎えにきてくれた。
車の中で私は疲れたと呟いて、目を閉じた。母が「まさかと思うけれどお酒なんて呑んでないわよね」と。
私は目を瞑ったまま「そんな事あるわけないでしょ」と呟いた。
家に着き、自分の部屋に戻って携帯を開いた。
さっき交換した先輩のアドレスにメールを打つ。
――さっきはありがとうございました。母に迎えにきてもらい今無事に到着したところです。
絵文字も入れず、ただ文字が並ぶだけのお礼の返信をした。そのまま携帯を閉じシャワーを浴びた。
部屋に戻り、携帯の着信ランプが点滅しているのに気がつく。先輩かな?そう思って携帯を開くと翔子だった。
すっかり忘れていた。翔子のメールにはどうして先に帰っただの、なんで何も言わずに帰るんだだの言葉が並ぶ。
だけど、相当酔っているらしく、酷い誤字脱字だ。私はごめんねと翔子に返信した。
翔子のメールの最後には
――送ったくらたんだて?と書いてあった。きっと先輩に送って貰ったんだってと書きたかったんだろう。
明日、根ほり葉ほり聞かれるんだろうなとちょっと憂鬱。

未だに手放す事の出来ない参考書。
机の上の本棚の隅に大学の教科書と並んで置いてある。
勿論勉強するわけではなくて……。
その参考書をちらりと見入って目を閉じた。
いい加減、潮時だよなと呟いた。