涙の訳

戸惑いの春

桜の花びらが風に舞う。
キャンパスの中庭をブックエンドを小脇に抱え一歩一歩踏みしめて前を見据える。
道いっぱいに広がる妙にはしゃいだ集団に行く先を遮られ足を止めた。
何気なく、視線を上にあげてみる。
満開の桜の樹を見上げると淡い桃色が視界いっぱいに広がって。
一枚一枚の花びらはこんなにも小さいのにそれを感じさせるものは全くなくて。
綺麗。そんな言葉がしっくりくる。

反対に足元には、風に舞って空中を彷徨い自由を満喫し、地に落ち終焉を迎えた花びら。
新しい花びらが覆っていないその場所は……色あせて変色して。
天国と地獄?そんな感じがするのは私だけだろうか。

どうして、私はここにいるのだろう。
受験を終えて、晴れて女子大生になったというのに私の心は曇ったままだ。

あなたは何処にいるのですか?

あの日、結局日付が終わっても連絡が来ることは無かった。
あの日だけではないその後もずっと。
ホワイトデーに連絡する。それが返事だから、多分そう言っていた。
だから、連絡がこないということはそういうことなのだろう。
それならば、最後にどうしてあんな期待させることを言ったのだろう。
それとも、少しは迷ってくれたのだろうか……

連絡先を知らない私はそれを確かめるすべもない。
一度だけ、あの塾に行ってみた。
あなたはもう先生で無くなっていた。
元々学生で、アルバイトの身。
本業の学業のが優先なのは当たり前のことだ。
バイトを辞めてしまうのは仕方がないこと。
最後の頼みの綱も切れてしまった。私にはあなたに会うすべがないのだ。

高校と違って、未知の世界の専門的な分野。
私には寄り道する間など無かったのでかえって良かったのかもしれない。
無理やり忘れる事も考えたけれど、あの頃の自分は否定したくない。
ちょっと素敵な夢を見れた。
そして、そのおかげで受験も乗り越えた。
それだけで十分なのだから。

この時期のサークルの勧誘は噂通りの凄いものだった。
一人でも多くの新入生を獲得しようと、みんな必死だ。
ちょっと立ち止まると怒涛のような呼び文句。
無理やりペンを持たされることもあるくらい。
私は、何処にも入る気は全くなかったのだが。
最初の授業で隣同士になった翔子と知り合って、強引に見学に連れまわされるはめに。
今、私はその翔子から必死に逃げている最中だった。
私のように実家から通える範囲に住んでいない翔子は3月の終わりから大学の近くのアパートに一人暮らしをしていると聞いた。
ようは寂しいのだ。
一人でも多くの仲間が欲しいのだ。
サークルは彼女にとってうってつけだろう。
長期休みにも、実家に帰ることなく、時間を共有する仲間に出会えるのだから。

そんな翔子にいつも引っ張られて、ついて行かざる負えない状態になってしまうのだ。
でも、どうにかして強引に連れ出してくれる翔子のおかげで、
学校周辺の美味しい料理屋は、ばっちりインプットさせて貰っているのであんまり無碍には出来ないところがあるのも事実。
私にはこのくらい強引な友人がいてもいいのかも、あの日から無気力になってしまった私にとっては。

「瑠璃子見ーつけた」
にっこりと笑って私の前に立ちはだかる翔子。
逃げてはいたけれど、そんなにも嫌ではなかったのかもしれない。
翔子に腕を取られて中庭を逆戻りし始める。
ゆらゆらと落ちてくる花びらが私の口にそっとのった。
指先ですくい取る小さなハート。
お疲れ様とわけのわからない言葉を呟いて、指で捏ねて地面に放った。

キャンパスの周りに立て看板を立て、メガホンを持って近くを歩く新入生に声を掛ける人々。
私は、ちょっと冷めた目で見ていたのだと思う。
自分がどこかのサークルに所属するなんて考えていなかったのだから。
翔子はいつのもようにひょこっと顔を出しては、また次へ。
そんな事を繰り返していたのだけれども。

「見つけた」
満面の笑みを浮かべて翔子が振り返った。
思わず私は後ずさってしまった。
「瑠璃子ここにするよ」って。
私も?ちょっと勘弁してもらいたい。
私が何も返事をする間もなく、翔子は何やら書き込んでいく。
そして、にっこり笑って当たり前のように私にペンを差し出した。
宙に浮かぶボールペン。翔子の手は上がったままだ。
不思議そうな顔をして私を見ている。
「私はいいよ」
周りにいる人に遠慮して消え入りそうな声。
すると、すぐ隣から優しく響く声がした。
「大丈夫、そんなにかしこまったサークルじゃないから、名前だけみたいな奴もいるしね」
「ほらほら先輩もそう言ってる事だし、早く書いちゃいな」
翔子から無理やりペンを握らされた。
隣の先輩とやらは、決まりすぎるほどの笑顔で私の指先を見つめている。
「強制参加とかないですよね」
それはある意味肯定の言葉だ。
翔子と先輩と顔を見合わせて、してやったり顔。
「勿論だよ」
その言葉の後にしぶしぶながらサインをした。

その一週間後。
「「「かんぱーい」」」
私は居酒屋にいた。
未成年の私は勿論ウーロン茶。
翔子は……それオレンジジュースだよね?
二十歳を超えている先輩達は当たり前のようにお酒を呑んでいる。
これが大学生のノリなのだろうか?
新歓。そう言われてもピンとこなかった私に翔子が教えてくれた。
新入生歓迎会だよ、と。
「初めだけは参加しよう」とまたいつものように連れてこられた。
連れてこられたって言うのは違うか。
本当に来たくなかったならこなかった。
名前を書いたのは自分だし、最初だけは出てもいいよな、そう思ったのは事実。

でも。
やっぱりこなければ良かった。
自己紹介が終わった途端に、なんだかその場が急に変わった。
まだお酒に慣れていない若さのせいなのか、初めなのか、新歓だからテンションが高かったのか、テーブルの隅にはジョッキがどんどん並んでいく。
お酒を呑んでいない私は妙に冷めた目で見ていたんだと思う。
私の隣から翔子もいつの間にかいなくなっていた。
アウトドアを中心にみんなで仲良く遊ぼうが目的のこのサークル。
名前だけの人もいるって言ってたけど、本当にその通りなのだろう今日だけは参加する人もいるそうで、フロアを貸切ってしまうんじゃないかという程の大人数だ。
これなら、途中帰っても誰も解らないだろう。新入生は一律千円と会費は先に払ってあるし。
周りを見渡して翔子を探した。翔子だけには一言言ってから帰ろうと。
ぐるっと、見渡した先にあの時の先輩がいた。
この人数だ、新入生も沢山いるし、あの時会ったきりだからきっと向こうは覚えていないはず。
そう、思っていたのに。
名前も知らないその先輩はあの時と同じように柔らかな笑みをくれた……と思う。
私の両隣も人がいるし、っていうかこの人さっきから私の背中をバシバシと痛いんですけれど。
「ねっ瑠璃子ちゃん」
突然同意を求められても、ちっとも聞いていなかった。
「はあ」
そんな間の抜けた返事しか出来なかった。また視線をもとに戻して翔子を探す。
遠い目で翔子を探す私の目の前を誰かが横切ったと思ったら、隣のバシバシ背中を叩くこの男の子の肩に手を置いて。
ゆっくりと隣の彼が立ち上がった。そしてその隣に。
「久しぶり。俺、2年の倉野稔。覚えてる?」
その笑顔と同じ柔らかな口調。
「はい。あの時の方ですよね。私は前原瑠璃子です」
自己紹介をしていた。
「さっき聞いていたよ」
そう言うと先輩は私の空になりそうなグラスを見て
「ウーロン茶一つ」
と大きな声で注文してくれた。
帰るつもりでいた私はちょっと戸惑う。
「良かった、ちょっと心配していたんだ、その後どうなったのか」
気に掛けてくれていたことにちょっと驚きだった。私の表情を読み取ったのか先輩は
「実はね、俺もその口なんだ。無理やりっぽく名前を書かされた口。ほら、あそこでちょっと暴れ気味なあいつ」
視線を辿ると、納得。妙に弾けた人がその先にいた。そして、驚いた事にその隣に私の探し人がいた。
「翔子」
ぽつりと名前を言うと
「あの子、感じがあいつと似てるかも。あいつって俺と同じ商科の矢島将人って言うんだ。そのうちリーダーになる奴だから」
そう言うとちょっと遠い目をした。
目の前にウーロン茶の入ったグラスが置かれた。もう少しの居残りが決定。
先輩は私を気遣ってくれるように、大学の話やサークルの話をしてくれた。
私の周りにいた新入生も興味津津で乗り出してきて。
矢継ぎ早に紹介される名前を覚えるのが一苦労だった。
私は曖昧に頷きながら、その場をやり過ごす。
ウーロン茶を半分飲みほした時
「すみません。ちょっと」
と鞄を取って席を立った。
うまい具合に先輩も話に夢中みたいだし、このまま。
そう考えて、トイレに立つ振りをして出口に向かった。
案の定振り返っても皆話に夢中で私に気がつく人はいなそうだった。
会計の前を少しお辞儀をして通り過ぎる。
無銭飲食って思われないよね。そんな事を頭に過ったけれど店員は大きな声で
「ありがとうございまいた」
と。ちょっとドキッとして足早に店を出た。
ざわついた店内だから誰も気がつかなかったよね。
黙って出てきた事に多少の罪悪感を覚えながら、駅へと続く繁華街を一人歩いた。
街には、私達と同様に新しい人を迎える歓迎会や花見帰りの人達が大勢いるようだった。
中には真新しいスーツに身を包みながらも、真っ赤な顔をして同僚らしき人に支えられて歩いている人も。
この時期は毎日こんな風景なのだろうと歩道の隅を小さくなりながら歩いていた。