贅沢な願い事

噂話
「椎名ちゃんのタイプってどんな人?」



パーテーションで区切られた向こう側は昼食を終えた女の子達。
一息ついたのだろう、小さなため息とともに彼女たちの声が聞こえてきた。
途端に俺の耳は一回り大きくなったようだ。
椎名はわが社のアイドル的な存在だ。

小さくて、守ってあげたいと思わせるその容姿とは裏腹に結構鋭い処をズバッとついてくる。そんなギャップの持ち主、それが椎名だった。

俺にとっては、そんなにも気になる存在でも無かったが、彼女がどんなタイプなのかはちょっと気にかかったのも事実。
すると椎名の口が開き始めた。

――大きな身体でしょ、それと物知りで、はっきり物を言う人かな――

「おーっ怪しい誰か思い浮かべながら言ってたでしょ〜」
椎名を揶揄している周りの声。

そして、
「あっもしかして、根本さんじゃない?」

突然出てきた俺の名前にドキっとして、危うくコーヒーを零すところだった。
自分の耳が一回りも二回りも大きくなったような気がした。
椎名の言葉を固唾を飲んで待つ待つこと数秒。
「う〜ん」

とどちらとも取れないらしくない返事。
せめて、表情さえ見れたなら……

確かに。
学生時代にラグビーで鍛えたこの身体に、一応の常識は持っていると思う。
結構はっきりものを言う方だ。だがどちらかと言ったら世に言うKYという奴らしいが。

ひょっとするとひょっとするか?
10分前までは考えてもみなかった妙な気分になってきた。

椎名が俺の事を好きかもしれない。
一度考えたらそれは消えてくれることがなくて――

その日は隣の席に座る椎名の事が気になって仕方なかった。
単語で話しかけられたり、こっちを見ないで書類を渡すのは俺の事を意識しているとか?
なんて考えて、どぎまぎしてしまう。

挙句の果てに反対隣の同期の木内に熱でもある?

と言われる始末。どうも顔に出るらしい。
いつの間にか、視線は椎名を追っていた。

実のところ、俺が今日まで気になっていたのは、この俺の隣で眉間に皺寄せながら企画書と格闘している木内美佐子だったはずなのに。

確かその発端も
「根本といると楽だよね、気を遣わなくてもいいし」

という一言だったような。
何となく、それって遠まわしの告白みたいだろ? 俺と一緒にいるのが自然で良いって聞こえるよな。

隣の席同士、残業上がりに2人で飲みに行った事もあったし、同じく同期で木内と仲の良い中井が一緒にいる時なんかは遠慮無しに酒を呑むもんだから、ぐでぐでになったこいつをタクシーで送った事は一度や二度ではきかない、無論中井も一緒だったけれど。

普段はしゃんと背筋を伸ばしバリバリ仕事をしている木内。ところが俺と中井と一緒に飲む時は、毎度のように酔っぱらって無防備になるんだ。もしかして俺誘われてる? って考えてもおかしくないだろ。中井も一緒に居る手前、未だ手を出した事はないけれど。

だから、漠然と俺はこいつと将来を共にすることになるのかな、とか考えていたわけだ。
椎名が気になりつつも、木内も捨てがたいような。
モテる男の辛いところだ。



それから、数日たった。
両隣を気になる女に囲まれて、多分浮かれていたんだと思う。
クライアントとの話が長引いて、すっかり日も落ち、駅から会社への道のりでは、幾人もの社員とすれ違った。
会社の前に着き自分のオフィスがある7階の窓を見上げる。

月明かりならぬ、ネオンの光が会社の窓に反射していた。
凝らした目には、まだ辛うじてフロアの一角に電気が灯っているのが見え、まだ人がいるんだなと少しほっとした。
あれから、良く考えた。あの日は舞い上がって椎名の事で頭がいっぱいになったのだが、やっぱり木内の事も気になってしまうのだ。椎名の良さも木内の良さも甲乙つけがたい。
遠いアフリカを思い浮かべて、一夫多妻制のあの国を羨ましく思った。

自動ドアを通りぬけると、いつもだったら可愛らしい笑顔で迎えてくれる受付嬢は既におらず、変わりにに厳つい警備服を纏ったおっさんが、これまた低い声で

「お疲れ様です」
と頭を下げる。反射的に最敬礼してしまった。

広いエントラスには俺以外は反対方向、すなわち出口に向かう人ばかり。その人達さえも、会社に残った最終組に近いのだろう、もうまばらにしかいなかった。

エレベーターの前に立ち、人差し指でボタンを押した。
既に止まっていたのだろう、ボタンを押すと同時に扉が開いた。疲れがピークに達し、首を項垂れ、機械的に足を一歩踏み出すと、何やら視線の先に絡み合った男女の足?

ゆっくりと顔をあげる俺に衝撃が走った。
男の胸にもたれるように、顔を隠したその女。
女の顔を隠すように、女の後頭部に手を回す男。
大きな身体の男に女はすっぽりと収まっていた。

あまりの衝撃に固まってしまった俺の横を、音も立てずにすり抜けていった2人。
動かす事を忘れていた後ろの足を一歩前に動かすと、静かに扉が閉まり始めた。
俺の正面、すなわちエレベーターの奥にある鏡に、顔を上気させ、ちらりとこちらを見る椎名の顔が映った。口元には一本人差し指が。扉が閉まるその瞬間、彼女の指がするりと下に落ち男の指を掴むのが見えてしまった。

今のは夢?

呆然としながら、エレベーターの壁に寄りかかった。
椎名は俺の事を好きだったんじゃないのか?
今見た出来事を追い払うかのように、大きく頭を振り、押すのを忘れていた7のボタンを人差し指でグイと押した。その指を先程の椎名のように唇にあてる。やっぱりそう言う事だよなぁ。
7階まで直行と思っていたのに、ゆっくりと進む数字は5で止まる。慌てて口元から手を下し先程と同じように、壁にもたれた。開かれたドアの先には、見知った顔が立っていた。