贅沢な願い事
毎月必ず?
何度時間を確認しただろう。
もう着いてもいい頃なのだが。
ゴルフの帰り、美佐子からまた一つ情報を仕入れた。
香也が毎月5日に発売される雑誌を駅下のコンビニに寄って買って帰る習慣があることを。
それが今日である。
折角、上手く事を運び、直帰に持ち込めたというのに肝心の香也はまだ現れなかった。
美佐子の奴、”毎月必ずそこで買うから”って言っていたけれど必ずなんてあるのか?
昼を過ぎた辺りから、もうこの事しか頭に浮かばず、何度も何度もシュミレーションをしてしまった俺。
もし空振りだった時には、どうしてくれようか。
日頃散々世話になっているにも関わらず、良く考えると随分と勝手な言い分だが。
またホームに電車がやってきたようだ。
俺は雑誌のコーナーから一つ後ろの棚へ移動して、階段の先へと目を移す。
疎らだった人が段々と群れを成して押し寄せてきた。
高かろう低かろうの香也は埋もれてしまうかもしれないが、この雑踏の中でも俺は彼女を見つける自信がある。
それが、指先だろうと、髪の一部だろうと。
スーツ姿の親父に紛れて、一瞬だけ見えた肩口。
見つけた
香也の足は流れに合わせてこちらへと向かってくる。
俺はそしらぬ顔で店の奥にあるドリンクコーナーへと向かった。
「いらっしゃいませ」
やけに明るそうな店員の声と共に香也が店内に入ってきたのが分かった。
香也は美佐子の言ったとおりに他には見向きもせず、雑誌のコーナーの前に立った。
俺は目の前にあったビールを一缶取り出すとそのまま、香也の後ろに立った。
緊張の一瞬。
「今帰り?」
よう、でも久し振りとも言わず、たった一言だけそう告げた。
雑誌をペラペラと捲っていた指が止まり、首だけを捻ってこちらを向いた。
さらりと流れる髪に触れたいと思った。
「あれ、俊平君も帰りなの?っていうか今まで全然会わなかったのに、一回会うと偶然って続くものなんだね」
なんてのん気なことを。
そんな訳ないだろ、俺がどれだけ努力してるのかお前に見せてやりたいくらいだよ。
気持ちの温度差にどうしようもない程の焦燥感が溢れ出しそうになるのを必死に堪えた。
運命かもな、なんてそう言えたらどんなにかいいだろう。
きっとこれが他の女だったらさらりと言えただろう。
でも、どうしたって例え冗談でも、こいつの口から否定的な言葉が出てくると思うと軽々しくは口に出来ない。
「だな」
俺は香也の隣に立って、どうでもいい週刊誌を手に取った。
パラパラと捲ってみるも別段見たい記事が有るわけでないし、パタリと閉じて棚に戻した。
香也は俺の事などまるで気にする様子もなく、またページを捲り始める。
どうせ買うのだから、家に帰ってから読めば良いものを。
俺は香也の耳元に口を近づけて
「一緒に帰ろうぜ」
と囁いた。
前に何度か言われたことがある。
低い声で囁かれると、ゾクっとしちゃうよと。
勿論ベットの上でのことだが。
この声が香也に通用するとは限らない。
でも、思った以上の効果があったようだ。
後ろから見た香也は、一瞬身を縮ませて、耳がほんのりと赤くなっていた。
声に反応したのではなく、もしかして耳が弱いのか?
これは使えるかもな。
一人悦に浸っていると
一呼吸した香也は
「ちょっと待ってて」
と雑誌を手にレジへ向かった。
俺も香也の後を追い、香也の後ろから雑誌の上に手に合ったビールを置いた。
後ろを振り向き
「えっ」
と言ったが、店員は黙って俺のビールと香也の雑誌にピッとバーコードを当てた。
悪いな青年、悪いが香也は俺のものなんだ。
財布から札を取り出して店員に渡した。
さっきから、あの店員がチラチラと香也のことを見ていたのに気がついた。
本気で好きなわけではないだろうが、牽制しておいたほうが無難だろう。
顔を顰めた店員を見て心の中でガッツポーズを決め込んだ。
釣りを貰って、唖然とする香也の頭にポンと手を置き出口へと向かった。
店を出るなり香也は財布から500円硬貨を出すと俺に手渡した。
「お釣りはいらないから」
って足りないんじゃねえの?
でもまあ、それも有りかと香也から手渡れた硬貨を無造作にポケットに入れた。
駅前の街路樹を2人並んで歩いた。
何度も何度も夢にまでみた光景。
なんてことない話をしながら歩く。
屈託無く笑う香也。
左上から見える香也の顔は上気しているように見えて……
控えめな淡いピンクの口紅が目に付いて離れない。
この唇を何人の男が塞いだのだろう。
考えたくも無いことを考えてしまう。
相当険しい顔をしていたのか
「俊平君?」
と立ち止まり俺の顔を見上げる香也。
頼むからそんな顔で見ないでくれ。
抱きしめてしまいそうな気持ちを必死で堪えて
「腹へって倒れそうなんだよ」
と多少ぶっきら棒に言った。
「そっか、もうお腹減ってくるよね」
住宅街に入って各家庭の換気扇からは食欲をそそる匂いがする。
でも俺が減っているのはそんなんじゃねえ。
香也、お前が食いたくて倒れそうなんだよ。
まだまだ時期ではない。
この先の長い一生を考えればほんのちょっとの我慢だ。
そう思えばこそ、香也の家の前に着いてもあっさりと別れられるというものだ。
帰り際、わざと香也の耳元で
またな
と囁いた。
香也は”何するのよ”と慌てて耳を押さえていたが。
肝心の顔が真っ赤になっていた。
最後に聞いた香也の声は
全くもう!
と言う叫び声だった。
いい感じかもしれない。
少しだけ手ごたえを感じた夜だった。
その後、1週間振りに帰った自分の家。
母親は驚いた顔をしていたが、
「暫く、こっちから会社行くから」
とそう告げた。
会社では結構大きなプロジェクトが一段落した。
美佐子の叔母さんとのパイプも出来た。
この時期を逃すとフレックスタイムの申請は暫く無理そうだから。
ポケットにある500円を握り締めて、香也に思いを馳せた。