贅沢な願い事

後ろ髪

久し振りの家での夕食の後、自分の部屋に戻ってきた。
ここで寝るのも一年に何度あるか分からない位だった。
大学から一人暮らしをした為、もうかれこれこの家を出てから6年、いや7年か?
だが、この部屋は少しも変わっていない、出ていく時も洋服といくつかの日常品だけだったから。まるで今もここで生活しているかのようだ。たまには掃除もしてくれているらしい、こうやって、何の連絡もせずとも帰ってきたってあまり目立ったほこりがないのはそういう事だろう。目を瞑り先ほどの香也の姿を思い描いた。後もう少し、あいつが俺の隣を歩くのはそう遠い未来ではないはずだ。そんな事を思っていったら、ふと遥か昔の記憶が蘇った。
この部屋にいるせいなのか、はっきりと鮮明な記憶だった。



それは、クラスメートの一言から始まった。

「徳山、先生が体育館の準備室に行って昼休み中に跳び箱用意しろって言ってたぞ」

当時体育係りだった俺は何の疑いもなく、その場所に向かう事に。
もう昼休みは半分過ぎていた。
急いで行くと、半分開いた準備室の扉。
一瞬だけ、嫌な感じはしたのだけれど、俺はそのドアを開けてしまった。

そこには、数人のクラスメートがいた。
騙されたと気が付いたときは遅かった。周りを囲まれてしまったからだ。
逃げ出せるか?
幸いな事に老朽化したこの体育館の鍵は壊れている、隙をついて走れば。
そう考えている俺に

「お前さ、木内のなんなの?」
要するにこいつらは美佐のことを好きらしい。
昨日の放課後一緒に歩いていたのを見かけたという事だった。
其処には大地もいたというのに。
大地には手を出せないと解ってのことだろう。
いつも身体も小さく、軟弱そうな俺に矛先が向かってきたのだ。

「お前さ。男の癖にへらへらと笑って気持ちが悪いんだよ」

じりじりとにじり寄ってくるこいつらに身をかがめた。
周りを囲まれた輪が段々と小さくなってくる。

「ほれ、何とか言えよ」
その時。ガラッと扉が開いた。

「俊平君。一人で大丈夫?」
そこに居たのは大地でもなく、美佐でもなく香也だった。
心の中で、どうせだったら大地や美佐の方がと思ってしまった俺。
でも香也はさっと周りを見渡して、手伝いにきたのではないだろうこいつらをギッと睨んだんだ。そして、俺の前に立ちはだかった。
その瞬間、半円を描くようにさらっと広がる香也の髪が俺の鼻先をかすった。
まるでスローモーションのように広がった香也の髪が俺の頭の中に組み込まれたんだ。
こんな時にのん気なもんだが、それはとてもいい香りで。

「あんた達、卑怯じゃないの。一人に向かってこんな大勢で。最低だよ」

それは今まで聞いたことのない大きな声で、この狭い準備室の中に響き渡った。
香也はそのまま、近くにあった棒を掴んで大きく振り被った。

「言っとくけど私強いよ。これでも剣道暦永いからね」
そう言って俺を振り返るとニヤリと笑った。

誰だこいつは?俺の知っている香也ではなかった。
その時初めて、ドキュンと胸を打たれた気がした。
まだそれが何だかは解らなかったのだが。

香也の構えに怖気付いたのか、男達は悪態を付きながらも退散していった。
頭の上では授業準備のチャイムが鳴っていた。
始まり5分前を知らせるチャイムだった。

それからだ、俺が香也のことを目で追うようになったのは。
永い片思いの始まりだった。

それからまた少し時がたった中3のある日、昼休みの校庭。
鉄棒の周りで日向ぼっこをしている俺と大地の隣に、美佐と香也がやってきた。
あれからというもの、俺は香也を意識してしまって、もとのようには、と言っても元々そんなに会話はしなかったのだが、まともな会話が出来なくなっていた。

「そういやさ、お前らまだあれ続いてるのかよ?」
大地があれと差すのはきっとあのノートだ。

「あれって、交換日記のこと?そりゃ続いてるよ、ねっ香也」
そう言って視線を香也に向けると香也は

「うん、結構続いてる。美佐がこんなにちゃんと返してくるとは思わなかったからビックリしてるけど」
最近の香也はけっこう毒吐きで、聞いてる俺らは、美佐の膨れた顔お構い無しで笑いだした。

何を書いているのか非常に気になるところだ。
でも盗み見るわけにもいかないし。そんなことを考えていたら唐突に大地が切り出した。

「俺もやりたい、お前もそう思うだろう?」
って俺に言ってるのか?まさか大地は俺と交換日記をしたいってか???

「何て顔してるんだよ。俺らも混ぜてって言ってるの」
大地はそっぽを向きながらそう言った。

きょとんとした香也と俺。
そして
「いいよ。じゃあ、今のノートが終わったら回すよ。その代わりちゃんと回してよね」

あまりにも、すんなりしすぎた美佐の言葉に俺も大地も黙ってしまった。
一瞬呆けた後、心の中でガッツポーズをする自分がいた。
でかした大地と。

それから2週間後、本当に回ってきたノート。
自分が書き入れることよりも、あいつの書いたページが気になる。
ドキドキしながらページを捲ると、其処にはまだ大地しか書かれていなくて……

そういや新しいノートになってからとか言ってたな。
何を書こうか考えものだ、俺は迷った挙句に妹のことを書いた。
妹の失敗談を。

そんなやりとりを続けたある日美佐が書いた日記に衝撃が走った。
そこには日記のテーマなるものが綴られていた。

どんな人が好き?

どんな人って、俺には一人しか思い浮かばなかった。
暫しノートとお見合い状態。

美佐子のページには、面白くて、優しくて…… それは誰かを彷彿させるもので。
きっと本人には伝わらないだろうけど。
そして大地

好きになった人がタイプなんじゃねえの
と一言。

ページを捲る指にドキドキが最高潮だ。
香也は――

そこには美佐子と同じように、箇条書きで香也の理想が書かれてあった。
俺はすぐさまそのノートを手にコンビニへ向かった。
そして、硬貨を入れてそのページをコピーした。

そこに書かれていたのは、俺とまるで正反対のもの。
忘れないようにノートを抱え、香也の字が写ったその紙を大事に胸ポケットにしまった。
いつか、こうなれるように。

その晩、どう書けばいいのかじっとノートを見つめていたら、ふとあの日の香也を思い出した。あの体育館での威勢の言い香也を。

普段は煩すぎるあいつらの話しに耳を傾け、けらけらと笑う奴なのに
数人の男の前に立ちはだかり、ひるむことなく向かっていく香也を。

それは誰かに……そうだ、マロンに似ているんだ。
マロンは、ばあちゃん家で飼っていた犬だ。
マロンはちっちゃくって、いつもばあちゃんの隣にチョコンと座って。
おとなしそうにも見えるけれど、結構やんちゃで大きな犬にも向かっていったり。

そっかマロンに似てるんだ。

俺はノートに書いたんだ。
それもでっかな字で。

犬みたいな奴。

って。伝わらないのは重々承知。
でも俺は何となく告白をしたような妙な気分になったのだった。