贅沢な願い事

待つ時間

「徳山ーっ。明日の朝一、例の浅沼さんとこ宜しくな」
帰り際に課長が放ったその言葉。
内心、あの人話が長いんだよなぁ、なんてあんまり乗り気じゃなかったのだが。
「そうそう、最近お前、帰り遅くて大変そうだから、直行でいいぞ」
その一言に心が躍った。顔には出さないように
「了解しました」
なんて、返事をしたけれど、それってあれだろ。フレックス使わなくても朝、香也に会えるってことだろ。頭の中は一瞬で明日の朝の事でいっぱいになった。

明日こそは一緒の電車に。

気をつけていたはずなのに、数分後には堪え切れず顔に出ていたようで、珍しく残業している森山に
「何かいい事でもあったんですか?」
と突っ込まれてしまった。
「いや、別に」
口元を引き締めて、声のトーンを少し落とした。森山はそのことには触れなかったのだが
「そう言えば最近、徳山さん何時の電車に乗っているですか?駅に着いても見かけないんで気になっていたんですよ」
と書類を胸に抱え、上目づかいで誰にも聞こえないようにだろうか、小声で囁いた。
べったり塗られたピンクのグロスが目についた。そういうのが好きなやつもいるんだろうな、なんて人ごとのように考えた。
「いろいろな、仕事で早く出なくちゃいけないこともあるし、ホームに着いた電車に乗るから早いとか、遅いとかあんまり気にしてないんだ、要は遅刻しなきゃいいんだから」
自分で思うのもなんだが、今日は饒舌だ。

「そうなんですか、じゃぁ、あのーもう帰りですよねぇ」
語尾を縮ませ、森山は何か言いたそうだったが

「悪い、俺この後、用があるから」
と言葉を遮って、鞄を手に取った。本当は用なんてないのだが、どうせろくな話じゃないだろう。森山の横を通りすぎる時、ピンクのグロスが窄んでいるのが目の端に写った。
香也だったら……。先程まで頭に描いていた香也の顔。
同じピンクでも、もっと柔らかな色。あの薄い唇に良く似合っていた。
その色。近いうちに俺が掠め取ってやるから、そんな欲望。
取り敢えず、明日だな。その事ばかりを考えて、帰りのラッシュも苦にならなかった。
あわよくば、明日の朝は酷いラッシュならいいのにと、そんな事まで考えていた。

良い年した大人が可笑しいとは思うが、あの混雑した電車の中、あいつにとっては不可抗力かもしれないが、俺の腕の中に香也がいるかと思うと中々寝付けなかった。
中学生かって。我ながらちょっと頂けないとは思うが、そう考えてしまうのだから仕方がないだろう。
翌朝、習慣とは恐ろしいもので、いつもと同じ時間に目が覚めた。
家族で朝食を囲むなんて、もうないだろうと思っていたのに、不思議なもんだ。
「何か、兄貴今日は機嫌がいいんじゃない? もっといつもは無表情っぽいけど」
と突然、妹に突っ込まれた。当たっているだけに言い返せない。
こんな奴は無視だとばかりに、箸を進めた。すると
「ふーん」
と意味新な一言を。妹じゃなかったら、絶対付き合いたくないタイプだな。
そんな事をしている間にも時間は過ぎていく。
いつもだったら、出かける時間だ。朝食を食べ終えて食器を片付けると
「今日は直行だから、少ししたら出るから」
そう母親に告げた。
「だったら、コーヒーでも飲んでいけば?」
と最近買ったコーヒーメーカーを指さした母親。
「ああ」
と返事をすると、じゃあ2人前宜しくと。
要するに自分が飲みたかった訳だ。

コーヒーを落としている時間、スーツに着替えて身支度を整えた。
寝癖がついていないか、洗面台の鏡の前でチェックしていると
この前の帰り道、タバコの匂いが駄目なんだよね、と言った香也の言葉を思い出した。
激しく動揺し、その日のうちにタバコを止めた俺。
一人暮らしで手持無沙汰になり吸いだしたタバコ。止めるつもりなんて全く無かったはずなのに、香也の一言ですんなりと止めてしまった。どんだけ影響力があるもんだか。
鏡に映るスーツ姿にはっとした。タバコの匂いって……。
匂いが染みついていないか、思わずスーツの胸元を掴んで鼻を押し付け確認してしまった俺。
どうやら、大丈夫らしくほっとする。
鏡をもう一度見直すと、人影が。
「やっぱり怪しい」
とニヤリと笑う妹。しっかり見られてしまったらしい。
バツが悪いとはこの事だ、煩いとばかりに妹の頭をクシャクシャにしてやった。
後にした洗面所からは
「兄貴、最悪ーっ」
と叫ぶ声がした。
リビングに戻ると、
「全く、朝から何をしているんだか」
と呆れた母。でもその顔が少し嬉しそうに見えたのは気のせいではないと思う。
この前の朝、妹が言っていたっけ。母さん嬉しいんだよって。
案外そういうものなのかもな。
やりっぱなしだったコーヒーが懐かしいカップに注がれて置いてあった。母親だけあって俺の好みを熟知している。俺が入れるよりも絶妙な甘さとミルクの加減だった。

ゆっくりとコーヒーを味わって、時計を見上げた。
まだ時間は早いが、念には念を入れ家を出ることにした。
玄関にまだ、妹の靴が有ることが少し気にかかるところだが、さっきまで寝巻姿だったら大丈夫だろうと思いなおす。
そう言えば学生時代、家にやってくる香也にやたらと懐いていたっけ。香也に抱きつく妹に嫉妬した事もあったくらいだ。

家を出ると、気持ちが高ぶるせいか、自然と早足になっていた。
あの角を曲がると香也の家だ。
このまま香也を待って駅まで一緒に歩くべきか、先に駅に行きホームに立つ俺に気づかせるべきか。
迷った俺は壁に寄りかかり香也を待つことにした。一緒にいられる時間が多い方が良いに決まってるとばかりに。
自分が早めに来たのは解っているが、どうしたってもどかしい。
目の前を通りすぎる人を横目で見ながら、香也の出てくるだろう角を息を潜めて見つめていた。