贅沢な願い事
朝食
何だってあんなに近くに家があるっていうのに、帰ってくるかねぇ
母親がぶつぶつとそんなことを言いながら味噌汁を温めてくれている。
「母さんあんな事言っているけれど、兄貴が戻ってきて嬉しいんだよ」
まだ眠そうに目をこすりながら、妹が耳打ちしてきた。
「そうか?」
小さな声で呟いた言葉はちゃんと妹の耳に入ったようで
「本当よ、ここんとこ朝食が早くなったにも関わらずグレードアップしているもん」
そんな言葉が返ってきた。
そんなもんなのか。
母親の言った通り、会社の近くに家があるけれど、これからの人生に於いて今が一番の頑張り所だ。
かといって、毎日フレックスタイムが使えるわけでもなく、向こうの家に居る時よりも1時間は早く家を出なくてはいけない。
帰りも遅くなるし、飯を作る母親には悪いと思っていたが、妹の感じからして母親も口で言うほど嫌でもないのかも知れないな。
目の前にはあじの干物が程よい加減で並べられている。
会社に行く前に健康的な朝食にありつけたのはいつだったか、もう大分前に別れた女の真っ黒焦げにしたシャケをふと思い出した。
香也はどうなのだろう。
あいつに朝食を作っていたのだろうか?
朝っぱらから嫌な想像をしてしまった。
「俊平、ほら早く食べないと遅刻するわよ」
母親の一言で現実に戻る。
「頂きます」
と手を合わせて味噌汁を啜った。
一度考えてしまった考えは頭の中をちらついて。
”どう、美味しい?”
なんて、あのふわっとした笑みを浮かべて手テーブルに頬ずえつく香也を妄想してしまった。
マジ俺やばいって。
折角の朝食もあまり味わう事なく食べ終えて、身支度を整えて家をでた。
2つ目の角を曲がった先に香也の家がある。
こんな時間に出てくるはずがないと分かっていても、その先を見つめてしまった。
この時間になると、結構な人が駅へろ向かって歩いている。
流れに沿うように俺もその人々の中に埋もれていく。
初めてに近いここからの出勤。
辺りをみると、何人か見知った顔があったりした。
それはもう何年と顔をあわせたことがないやつらで、皆前を向いて黙々と歩いているので俺には気がつかないだろう、まあ俺だって声を掛けたりなんかはしなけれどな。
そんなことを思っていたのに、一人だけ話しかける相手を見つけた。
昔かっら姿勢が良かったよな。
つい最近も一緒だったにも関わらずこうやって背中を見るのは随分と久し振りだ。
きっと高校生の時以来かもしれない、確かあの時もそんな事を思ったような気がする。いや、その話題を振ったのは大地だったのだろうか。
コンパスの違いであっという間にその背中に追いついた。
「よう」
そんな俺の挨拶にこいつはびくっと体を縮こませて。
「げっ」
といった。全くもって失礼な奴だ。
「げってなんだよ、お前くらいだよそんな事言う奴は」
こいつも顔に出るタイプだ、思いっきりしまったって顔してやがる。
だけど、こんな感じだから今までつるんできたんだろうな。
はははっと乾いた笑いの後
「はよ、それにしても本気でここから通うつもりなんだ。結構大変なんじゃない、帰りなんかは終電でしょ。」
言葉とは裏腹に悪戯な笑みを浮かべる美佐子。
「まあな。でもそれほど嫌じゃないんだ。それほどな」
本当はむしろ嬉しいくらいだ。
香也が手に入るくらいなら、このくらいの事、なんてことないさ。
香也の顔を思い出すだけで、指の先まで暖かくなってきやがる。
思ったとおりの答えだったらしく。満足気に頷くと腕時計を確認してぎょっとした顔をした。
「やっば、今日、朝一の会議の準備しなくちゃで次の電車乗らないとまずいんだ、先にいくね」
最後のほうはもう小走りになりながら、美佐子は駆けていった。
やっぱり走る姿も姿勢が良かった。
サイドを後ろで一つに纏めバレッタで止めた長い髪が左右に揺れて。その姿は段々小さくなっていった。
大地はどうするのだろう?俺と違ってずっと近くで見続けていた想い人。
他の男と付き合ってる美佐子を遠目では切ない目で追って、近くでは優しく見守って。
そろそろ俺達もいい年だ。
美佐子が結婚したいとか言い出したら、動くのだろうか。
段々消えていった後姿を眺めながら、自分の心と少し重ねてそんなことを考えた。
普段は一駅しか乗らないのでさほど気にもならないのだが、さすがに何駅も乗ると満員電車の大変さを実感する嵌めになる。
俺の向かいには時代遅れだろうと思われるポマードを塗ったくったおっさん。
なまじっか背があるせいで、ほんと丁度俺の鼻のあたりに頭頂部がくるときた。
朝から拷問だ。
後ろを向こうにもぎゅうぎゅう詰めの車内では動くことも出来ずに必死でその臭いに堪えていた。全く何がいいのだろう?いくら年を取ったってまた流行りだしたって絶対ポマードだけはつけないと心に誓った朝だった。
やっとの思いでポマードのおっさんから開放された。
ホームに降りて、思いっきり息を吸い込む。
やっと生きた心地がした。
ほっとしたのも束の間、今度は俺の背後から
「徳山さん」
と甘ったるい声、森山だ。
さっきの美佐子じゃないが、前を向いたままきっと俺は”げっ”と言う顔をしたに違いない。
顔を作りなおして、
「おはよう」
と振り返った。
森山は朝からテンションが高くて弾丸のように話し始めた。
何でもいくつか前の駅から同じ車内に俺がいたのが分かったらしい。
質問攻めにあった。
「どうして、この電車に乗ってたのですか?」
との質問に
「ちょっと実家から」
と答えてしまったのがいけなかったらしい。
今度は
”誰か具合が悪いんですか? お父様? お母様?それとも――”
おいおい、両親を病気にするなっつうの。
それになんだ、そのお父様お母様って。
曖昧に答えた俺に。
じゃあ、明日から一緒に乗っちゃおうかな、この電車人に押しつぶされように必死で。徳山さんに守ってもらおうっと。
と勝手に自己完結したこいつに、背筋がゾクっとした。
明日から確実に一本早い電車に乗るぞと決定した瞬間だった。