贅沢な願い事

沈んだ心

冷静になれ、落ち着くんだ。

自分に言い聞かせる。
取り敢えず、詳しい状況の確認からだ。
しかし、美佐の携帯に電話を掛けるも繋がる事は無かった。
イライラと不安は頂点で。
ガードレールに腰かけて、鳴らない携帯を見つめる事しか出来なかった。

彼女は2の次? そんな事出来るはずねえだろ。
手帳に挟んだ香也の言葉を思い浮かべ唇を噛みしめた。

美佐からの電話を待つ事数時間。
食欲も全く沸かず、ただぼーっと時を過ごした。
幸い今日は商談もなく、顔出しメインだったのでそのまま仕事をさぼってしまった。
こんな事は初めてだ。

爽やかな風が湿り気を帯び、冷たくなってきたその時に待っていた電話が鳴った。
1コールもしないうちにボタンを押して耳に押し当てる。

「俊平……」
美佐の声は俺の名前を呼んで間が空いた。
「美佐、さっきのあれ」
俺が意を決し話掛けたというのに、美佐は大音量の声でそれを遮った。

「ごめん。違ってた」
頭の中で何度もリフレイン。
ごめん、違ってた。
って言う事は戻ってこないって言う事だよな。
生気のなかった俺に血が通い始めたかのように、全身が波打った。

「俊平聞いてる?」
返事の無かった俺に問いかけるような美佐の声。

「聞こえた」
だけど、肝心なのは香也の気持ちだ。
きっと動揺して美佐に掛けたのだろうからな。
まだ、気持ちが残っているという事なのか。
これには落胆する事しかなくて。

「香也がね、初めは動揺したって。嫌いで別れた訳じゃないからって」
聞きたくもない美佐の言葉。
でも。

「だけど、不思議と心が騒ぐような事は無かったって言ってたよ。それって……」
言葉を濁す美佐。
聞きたいような、聞きたくないような。
ほんの少しだけ、携帯を耳から離した。

「気にならなくなったって事だよね。もしかしたら、もしかするかもよ」
謎かけのようなその言葉。
その真意は香也のみぞ知るって事か。

「サンキュ、悪かったな、何度も電話して」

「こっちこそごめん。もっとはっきり解ってから知らせるべきだったと反省してる。俊平の想いを知ってるからこそね」

そうして、美佐から電話を終えた。
こんなに一日が長かった日は久々だった、こんな日はすべて香也絡みなのだが。
少しだけ気が晴れたとはいえ、何か引っかかるものが残ったのは確かだった。引っかかったなんて優しいもんじゃないのが本音なのだが。
暫く、そこから動けなかった、けれどいつまでもそこに居られるはずもなく。
重い足を動かして、朝出たままの会社へと戻った。

会社に戻ると、皆一様に
「お疲れさん」
と声を掛けられる。
何もしていなかった俺は後ろめたさでいっぱいだ。
せめて明日は今日の分まで頑張らなくては。

恋は2の次で勉強でも仕事でも頑張る人。

さっき否定したその言葉。
香也と再会するまではそうだったはずなのだが。
そんな甘いもんじゃないみたいだ。無理だと確信してしまうものの、少しでも近付かねばと気を引き締めた。

席に着くと今日の分を取り戻すかのように、パソコンにかじりついた。
香也の事を頭から追い出すように必死に。
気がつくとフロアには同期の矢島を残すだけで。
お互い顔を見合わせて、仕事を終えた。一緒にフロアを出て他愛の無い話をしながら駅まで歩き逆方向の電車に乗る矢島と別れた。気を抜くとどうしたって香也の事を思い出してしまう、矢島がいてくれて助かった。今の俺にはどうしたって、余計な事を考えてしまって。今日だけは、俺の心が落ち着くまでは、香也の事を封印しようそう思った。こんな事は初めてだった。

ホームに並んだ人の多さから想像は出来たのだが。
むさくるしいおっさんがうようよいる車内で身動き一つ取れない辛さ。
終電間近のこの電車には一杯ひっかけてきた人も大勢いるようで、車内の熱気に酒の匂いが入り混じりすこぶる気分が悪い。
車内には当然女の人もいるわけで、同情せざる負えない。
ほら、あの子なんて周りをでかい男に囲まれて顔を真っ赤にして下を向いているじゃないか。
災難だよな。もしこれが香也だとしたら――。想像しただけでも耐えられない。さっき香也の事をと思ったばかりなのに、もう香也の事を考えている自分がいた。俺も相当だな。

そのうちに電車が緩いカーブに差し掛かった。ふと先ほどの女に目を向けた。
本当に何気なく寄せた視線の先に、見てはいけないものを見てしまった。
後ろから、思いっきりその子の腹辺りを掴んでいる誰かの手を。
これって、あれだよな……。
周りの奴は気がつかないのだろうか?見て見ぬふりをしているのだろうか。
どうするよ、俺。
当たり前だが、車内は静かで。座っている人は勿論、吊革につかまっている人さえも目を瞑っている人が少なく無い。
気がついてしまったからには無視をするのは後味が悪いよな。
暫し考える。そして辿り着いた答えは。
向こうが気づくか分からないがやるだけの事はやってみるか。
静かに呼吸を整えて、一度大きく息を吸った。
「よう。美佐子久し振りだな」
相手との距離は僅かだが、何人か間に入っている。気がつくか? 気づいてくれ。緊張の一瞬だ。
けれど、案の定彼女は下を向いたまま。
「おいって美佐子だろ、下向いてないで無視すんなよ」
少し大きくなった俺の声に幾人かが反応した。彼女も例外じゃない。ゆっくりと顔をあげて俺と目があった。
俺が大きく頷くと、彼女は泣きそうな顔をしながらも俺の顔をじっと見つめた。
そうだ、それでいいんだ。
「やっと気がついたんだ」
俺の言葉に、戸惑いながら小さくうんと返事をする声が聞こえた。緊張が解けふーっと軽く息を吐いた。
彼女を通り越して見える車外の景色。
電車がブレーキを掛け始め、家々を灯す明かりが線から点へ、そしてはっきりと見えるように。俺が声を掛けた辺りから、きっと手は離れたとは思うが一旦降りた方が無難だろう。
どれくらい先に住んでいるのか分からないが、このまま、この電車に乗り続けるよりはきっとましだと。車内から見えるホームではうんざりするようなくらいな人、人、人。
金曜の夜だから、特に多いのだろう。
電車が止まると、人をかき分け彼女の肩に手を置きそっとドアに促した。
その時、小さな舌打ちが聞こえ、彼女は一瞬身を縮こませた。
手に力を込めて、ホームに降りる。
どうやら、痴漢もここまでは追ってこなかったらしい。
一先ず安心だ。
電車を見送ると、彼女は深々とお辞儀をして、消え入りそうな声でお礼を言った。
今日は歓送迎会だったらしい、この後あまり距離もないので今日はタクシーで帰ると言って早足で階段を駆け上がっていった。
大きく息を吐き、柄にもない自分の行動に思わず笑みが零れる。

咄嗟に美佐の名前を出してしまった、美佐には悪いが痴漢にあっている彼女を香也の名を呼ぶことが出来なかったからだ。
うんざりするような人の列の後ろに並ぶとふいに肩を叩かれた。

「あーやっぱり、俊平君だ」
それは紛れも無く香也であって。先程の緊張など比べ物にならないほど。身体が固まった。怖かったんだ香也に会うのが。一瞬意識が飛んだようで、ゆっくりと周りの景色が目に映ってきた。段々と焦点の戻ってきた俺、目に映るのは香也の姿、でも俺は香也を直視出来なくて。視線を香也から後ろにそらすと、そこにはヤレヤレと言う顔をした美佐が立っていた。

「俊平君ってばー、何とか言ったらどう? 清ましちゃってさ〜」
拗ねたような香也の声。
反射的に視線を向けてしまった。
上気した顔。相当酒を呑んだのだろう。
ご機嫌な様子で俺に絡んでくる。
やっぱり、あいつの事……

あのメールさえ見なかったならば。
手放しで喜べない俺がいた。