贅沢な願い事

決行の日

「タイミングかぁ」

美佐の言葉が胸をついた。
確かにそうだ。
ここまで何年もの時間を積み上げてきた俺だが、香也はそんな事解っていないのだから。
焦っているのは俺一人って事だよな。
何年もの時間を掛けてここまで漕ぎつけたんだ。
ちょっとしたタイミングで歯車が狂ってたまるもんか。

絶対香也をこの手に

あれから10日。
あの日以来の、否それ以上の緊張が襲ってくる。
上手い具合に時間がとれるなんて。
美佐がいうこれがタイミングってやつだろう。

鏡の前でスーツ姿の自分を見つめる。
漫画じゃないが、両手で頬を叩き気合を入れた。
窓を開けて朝の独特の匂いがする空気を思いっきり吸い込んだ。

机の上の少し陽に焼けた写真を半ば祈るような気持ちで目を向ける。
にっこりとほほ笑んだ香也が俺の隣にいる。
写真の中だけじゃない。
俺の隣で……
そう考えるだけで気持ちが高揚してきた。

いつもより少し遅めの朝食を食べるとするか。
煩い妹はもう家を出たらしい。
母親だけが、リビングで新聞を読んでいた。
「おはよう、俊平。テーブルの上に用意してあるから」

朝の早い母親はもう仕事が一段落ついたらしい。
テーブルの上の母親のマグカップからは、コーヒーの香ばしい香りがした。

「ああ」
そんな言葉しか返せなかった。
本当は言わなくちゃいけない言葉をのみこんでしまった。

朝食を食べ終えて、もう一度鏡の前に立つ。
自分に暗示を掛けるように心の中で何度も呟いた。
自分を信じろ
と。

踏み出す足が重かった。
全く自信が無いわけではない、むしろ香也の気持ちは俺に向いているという自負さえあった。
時折見せる、柔らかい表情やすねた顔。
あの頃のようにくるくる変わる表情は俺に対してのものだよな。

この前と同じように、香也の出てくる路地の壁に背を預けた。
立ち止まっていると、緊張から、足が震えてくるのがわかる。
今日で今までの結果が出ると思うとどうしたって落ち着かない。
心なしか、喉も乾いてきたみたいだ。無理に唾を飲みこんだその時

香也だ。

俺の事情なんて知るはずもないというのに、この前よりも余裕のある時間に姿を現した香也。
目を瞑り、大きく深呼吸をした。
行くぞ。
自分に声を掛け、未来へ繋がる一歩を踏み出した。


「よう」

「あっ俊平君、おはよ」

少し目を伏せ俯き加減で言葉を返してきた。
香也の歩幅に合わせるように、ゆっくりと足を運ぶ。
丁度、俺の肩口あたりでふわふわと揺れる香也の髪からは、男の本能を刺激するような甘い香りが足を踏み出す度に漂ってきた。

「お前さぁ」
「あのー」

2人の声が重なった。
少し遠慮がちなその声。
先が気になって香也の言葉を待ってみるも、香也は黙ったまま。

「何だよ」
香也の声のトーンや、さっきから目を合わせてくれない事に不安にかられ、動揺した俺のぶっきら棒な言葉。余裕がねぇって情けないにも程がある。
低く発した俺の声に、香也は少しだけ身を縮こませてしまった。

「俊平君は?」
どうやら、俺に話を譲ったらしく、さっきよりも小さい声でそう言った香也。

「俺が聞いているんだろ? 早く言えって」
だから俺、香也を萎縮させてどうするんだよ。
頭を抱えたくなる衝動にかられた。
そして、少しの間をおいて香也の口が開いた。

「この前の事なんだけどね」
2、3歩小走りして、急に振り返った香也。
まっすぐ俺の顔を見ていた。
その顔は、何だかしゅんとしている。
怒られた時のばあちゃん家のマロンみたいだ。
俺も足を止めた。

「ごめん、私全然記憶が無くって気がついたら家で寝てて……母さんに聞いたら俊平君が送ってくれたって言ったんだけど、美佐に聞いても何にも話してくれないし。もしかして、私何か変な事言ってなかったかな」
一気にそこまで捲し立て、小さく息をついた香也。
少しだけ、潤んだ瞳。不安そうな顔はそのままで俺の言葉を待っているようだった。

何を言われるかと、思った。
変な事とは何を意味する事なのだろうか?
尤も、香也は直ぐにタクシーで寝てしまったから、何も言ってはいないんだけれども……

変な事なんて言ってないぞ。
そう言おうと思った時、小さい声がまた聞こえた。
黙ったままの俺に不安を増したのだろうか

だって、謝ろうと思っても俊平君のアドレス知らないし。

路線変更だ。
どうせなら、今じゃない方がいいよな。
いろいろと練ったプランを一旦とっぱらった。

「あぁ、大変だったぞ。丁度いいや、今日俺帰り早いんだ夕飯でも奢ってもらおうか、嫌だとは言わせないぞ」
内心はびくつきながらも、香也の顔を見ると、一瞬目を大きく見開いてさっきまでの顔が吹き飛んだ。
はにかみながら、笑った香也は

「あんまり、高いとこは駄目だからね」
そう言ったのだ。

それって、いいって事だよな。
心の中では、拳をあげてガッツポーズを決めていた。

「ほれ、歩かないと電車乗れねぇぞ」
足を踏み出して、香也の先に進んだ。
途端に緩む俺の顔。

後ろからは
「待ってよ」
という香也の声。
ちょっとだけ浸らせてくれとばかりに、足を緩める事なく先を進む。
タッタッタッと香也の足音が俺の隣で落ち着くと緩んだ顔を引き締めた。

その後は単語ばかりの言葉を並べた会話。
何か話そうにも、気を緩めたらどうにかなってしまいそうで。
それは夜までお預けだとばかりに、変な意地を張ってしまった。
駅について電車を待つ間に、携帯のアドレスを交換した。

そして、満員電車に乗り込む俺達。
マジ幸せかも。
この前のように香也を包み込むように両手で覆った。
香也は顔を真っ赤にさせながら、ありがとうを連発していた。
そして、香也の降りる駅。
ドアが開く瞬間に
「逃げるなよ」
そう耳元で囁くと
本当に逃げるように電車を飛び出していった香也。

っておい。
何も言わずに背中を見せた香也。
大丈夫なのか?
半ば放心状態で、電車に揺られた。

実は今日、有給を取って休みだったりする。
香也がいない満員電車なんか用はない。
次の駅で電車を降りると、ポケットから携帯を取り出し、さっき入れた、香也のアドレスをじっと見つめた。
すると丁度良く、震えだした携帯。
香也だった。

――逃げないよ〜だ。終わったらメールするね――

何度も見返してしまうその文字。
絵文字も何にもない香也のメール。
だけど、ちゃんと繋がっていることが嬉しくてたまらなかった。

まだまだ続く、通勤の人達を避けるように自動販売機の横に立つと早速返信。

――当たり前だろ――
って、本当は続くはずの言葉を省略しすぎだろ俺。
しかし、送信してしまったメールは取り戻せない。
ちょっと後悔し始めた時にもう一度携帯が震えた。

――了解! 俊平君もお仕事頑張ってね――

やばい、マジで怪しい奴になってしまうかも。
にやける顔はどうにもならなかった。


さてと、どうやって時間を潰そう。
携帯を、ポケットにねじ込むと指先にあたるキーケース。

そっか、自分の部屋帰ってねえな。
とは言っても、目の前の電車には、まだギュウギュウ詰めの通勤客。
ホームを歩く人の波に自分も並んで歩きだした。
どっか、喫茶店で時間を潰してから帰るとするかと。

駅を出て一番初めに目についた喫茶店
気だるい雰囲気の店員に案内されて、カウンターに腰を下ろした。
ちらりと店内を見渡すと、モーニングセットを食べているサラリーマンや、参考書を広げる学生だとかが席を埋めていた。

これまた無愛想な店員が無造作においたコーヒーカップ。
一口啜り、まぁまぁかなとソーサーにカップを置いた。
普段は目にする事のない週刊誌を手に取って、ゆっくりとコーヒーを味わった。