贅沢な願い事
緊張
ポケットをさぐり鍵を取り出した。
ドアを開けた瞬間に埃っぽい匂いに顔をしかめてしまう。
暫く閉めっぱなしにしておいたから仕方がないか。
真直ぐリビングに向かうと、厚めのカーテンを開けて窓を開け放つ。
取り敢えず部屋着に着替えた。
スーツをハンガーに掛けカーテンレールに吊るし皺を伸ばした。
さながらこれは戦闘服だ。
一番気に入っているこのスーツ。今日の日にはこれしかないと決めていた。
ソファに座り、リモコンでテレビを付けるも、昼間の時間帯、さして気になる番組もやってはおらず、画面を見る事なくそのまま寝転んだ。目を瞑ると浮かんでくるのは、香也の顔。
さっきまでここに居たんだよな、伸ばした手が空を切った。
本当の計画は、朝の電車で、意味ありげな言葉を投げかけ、帰宅時間を聞いて香也の会社の前で待ち伏せするつもりだった。
強引にも引っ張っていこう、そう考えていた。
俺の目的は香也と付き合う事で達成するものでなく、あくまでも、香也に俺を選ばせる事。俺に惚れさせる事にあるんだ。そのための努力は惜しんだ事はない。
仕事が出来てクールな男。
初めのうちは大口を開けて笑ってしまう自分を抑えるのに苦労したんだ。
香也と離れた高校生活は、苦痛の時期でもあった。
自分から美佐や大地に香也の情報をせがんだ癖に、実際聞いてしまうと耳を塞ぎたくなったり。
追いかける恋がしたい。
溺れるような恋をしたい。
香也の言葉。
自分に妥協なんて出来なかった。スタートは年上の奴らになんか勝てっこない。
如何に早くものにするか、それを重点に仕事をした。
香也が学生から社会人になる時その時が一番不安だった。
理想ばかり追い続ける学生と違い、社会の荒波にもまれつつ仕事の出来る奴。
それが社会人に成り立ての女にとってどれほど憧れの要素が高いかという事は解りすぎる程解っていた。
まぁ事実その通りになってしまったけれど。
でも過去じゃない、未来が俺には待っているんだ。
何年も何年もそう思い続けた。
いつの間にか眠っていたようで、生温かい風が頬にあたり、遠くに聞こえる廃品回収のマイクの音。
腹ごしらえでもするかと、コンビニに向かった。
刻々と迫る決戦の時間。
軽く緊張をときほぐそうと、いくつかのおにぎりと缶ビールを2缶、籠に入れた。
何を食べても、ビールを飲んでも味気がしなかった。
自分で思うより数段緊張しているに違いなかった。
スーツに袖を通す。
朝のように鏡の前に立って自分を奮い立たせた。
多少強張った自分の顔を見て、
次にここに立つ時はきっと今とは違う緩んだ自分の顔を見るはずだ。
そう思いながら、鏡の自分に背を向けた。
玄関に向かったその時に、肌身離さず持っていた携帯が震えた。
「後30分で会社を出れるよ。俊平君は大丈夫なの?」
待っていたメールが来た。
「了解。俺はもう行けるから改札で待つ」
用件だけの返事を返した。
丁度良い頃合いだ。
駅へと向かう足は知らないうちに早くなる。
少しでも早く会いたくて。まるで十代の頃のような胸の高鳴りを感じた。
香也の使う駅に降り立つ。
香也の会社からの距離ではそろそろだろう。
少しでも早く香也を視線に収めたくて視線は真直ぐ、香也が来るであろう階段へと向かう。
ところが、待てども香也はやってこなかった。
さっきメールくれたよな。
携帯を取り出して、何度も香也のメールを確認してしまう。
ドタキャンって事はないよな。沈黙を守ったままの携帯を握りしめた。
背中を変な汗が伝いはじめた。
どれくらいたったのだろうか、段々と嫌な緊張が襲ってくる。
別に誕生日とか記念日とかそんな特別な日でもないのだが、今日じゃなきゃいけない、そんな気がして仕方が無かった。
今日しかないと。
落ち着きのなくなった視線の先にさらりとゆれる髪が。
来た。
香也は階段を駆け上がってやってきたみたいだった。
俺を視界にとらえると、少し顔をゆがませて俺に向かって走り寄ってきた。
「ごめん、定時きっかりにタイムカード押したものだから先輩に捕まっちゃって、ほんとごめん」
息を弾ませながら、上気した頬を見せ、両手を合わせて頭を下げる香也。
少しだけ頭をあげて俺の顔を覗きこむ仕草は、そのまま抱きしめたい衝動に駆られる。
思わず上がってしまった腕で香也の頭を軽く小突いた。
「遅せーよ」
言葉とは裏腹に緩んでしまった俺の顔。
香也は俺の顔を見て安心したのだろう、くしゃりと笑ってもう一度
「ごめんね」
と俺の顔を見ていったんだ。
マジ可愛い。やばいってその顔は。
行くか。
そう声を掛けて歩き始める。
俺の隣を歩く香也は、今日あった出来事を笑顔を交えて話している。
俺は、この後の事を考えるとどうしたって余裕がなくなってきて
「あぁ」とか「ふーん」だとかそんな言葉しか出来なかった。
もしかして、上手くいかなかったらこんな風に隣で歩く事も出来ないのかもしれない。
そんな不安な一瞬過った。それは顔に出ていたようで
「俊平君?」
香也に名前を呼ばれて我に帰った。
「悪りぃ、何処行くかって考えてた」
よくまぁ、咄嗟にそんな言葉が出てくるもんだよ、我ながら感心する。
「そっか、何処にしようか? お酒あった方がいい?」
「無くても構わない。香也の奢りだろ? 店はお前が決めていいぞ」
本当は夜景の見えるホテルの最上階のバーを予約していた。
だけど、何となく迷っている自分もいた。
あからさまな所に連れて行くよりも、もっと砕けた感じの方がいいのかもしれないと。
それに、この前の香也の姿を見ると、酒を飲んでまた覚えてません何て言われた日にはたまったもんじゃない。
香也の好みは知っているつもりだが、香也の好きな店を知るにはそれでいいのかもしれない。
奢られるつもりなんてないけどな。
「うーん、やっぱり俊平君が決めて」
暫し悩んだ末に出た香也の言葉。
計画通りのバーではなく、森山に連れて行かれたレストランが頭に浮かんだ。
一度だけ来た事のある店。
同期の面々で食事をしたあの店に。
「うわー素敵」
多分香也は店に入った時、そう言ったのだと思う。
俺はというと、何を話したのかも何を聞いたのかも正直全く覚えてなくて……
気がついたら、食後に出されたデザートを満面の笑みで頬張る香也をじっと見つめていた。
俺がこの顔をさせているんだよな、なんて。
香也のデザートが終わり俺は黙って、伝票を手に取ると
「行くぞ」
と会計に向かって歩き出した。
その後ろを慌ててついてくる香也。
「私が」
という香也の言葉を目で遮った。
店を出ると目の前の街路樹がイルミネーションで飾られていた。
うっとりとした表情を見せる香也。
やっぱりここで正解だったかもと一人ほくそ笑んだ。
視線の先には、どうしたって目につく2人組。
手を繋いでいる奴や腕をからませている奴ら。
ほんの少しだけ間を開けて歩く俺達はどう見えるのだろうか。
何となくだけど、香也の視線も俺と似たようなところを見ているような気がした。
「もしかして、羨ましいとか」
気がついたら、そう口にしていた。
「な、何が」
図星だったのだろうか、ちょっとどもった香也。
今がその時なのかもしれない。
というか、俺が待てなかったんだ。
「どうせ誰もいないんだろ。俺と付き合うか?」
そんな俺の言葉に、大きく頷いた香也。
やったんだよな、これっていいって事だよな。
自信がなかったわけではないが拍子抜けするほどあっさりと頷いた香也に俺は思わずフリーズ状態。
そのうちにじわじわと実感してきた。
数秒間無音だった俺に周りの喧騒が聞こえてきた。
ニヤケそうな顔をぐっと堪えて、目の前の香也の表情をじっと見つめる。
さっきまで、笑っていた香也は耳まで真っ赤にして俺を見ていた。
「お前、犬みたいだな」
何でそう言ってしまったのか。
それは失言かもしれないと思ったのはずっと後の事だった。
これは最初の一歩にしか過ぎないんだ。
俺の本当の目的は、香也に惚れられる事。
しかし、その後の計画が、自分の首を絞める事になるなんてこれっぽちも思っていなかった俺は、イルミネーションの下、ずっと続くだろうと信じて疑わなかった幸せを噛みしめていた。