贅沢な願い事

恋したい? 1
思ったより仕事が長引いてしまった。
香也との約束の時間から既に一時間以上経っている。
待ち合わせ場所はいつもの駅前の喫茶店。
マスターとも顔見知りのその店だったら、香也が一人でいても安心だ。

怒ってるだろうな。
プクっと頬を膨らませた香也を想像して、跳ねるように歩幅が広がった。
そんな顔も好きだと言ったら、香也は何と言うだろう。

喫茶店が見えてきて、歩幅を狭め息を落ち着かせる。
うっすらと掻いた額の汗をポケットから取り出したハンカチで拭った。
先週の土曜香也がアイロンを掛けてくれたハンカチだった。

駅前通りにあるその喫茶店はガラス張りになっていて、俺はこっそり中を覗いてみた。
勿論香也を見る為に。
お気に入りの場所はカウンターの端っこ。
やっぱり今日もその場所に香也の後姿を見つけた。
大抵香也はマスターと談笑しているんだ。
そして待たせているのは自分な癖にそれを棚に上げて、マスターに嫉妬する。
そんな構図があったのだけど。
今日に限って香也は一人で俯いていた。
一歩踏み出し、香也の横顔を盗みみると、プクッとした顔は何処へやら嬉しそうに顔を緩めているじゃないか。
手には携帯が握られている。

そんな嬉しそうな顔をして誰とメールをしているんだ?

誰とも知らない相手に殺意を覚えるほど、香也にそんな顔をさせるのは俺だけで十分だ。
走ってきたからではない、小刻みになった鼓動を抑えるように胸に手を置いた。
ガラスに映った自分の顔が引きつっているのが解る。
平常心平常心。
何度かそう呟いて、自動ドアの前に足を踏み出した。
視線は香也をじっと追っていた。

マスターが香也に俺が来た事を促すと、香也は慌てて携帯を鞄に突っ込んだ。
これって怪しくないか?
そんな急いでしまうもんじゃないだろ?

自分が待たせた癖に、その事は綺麗さっぱりすっ飛びモヤモヤとした気持ちが膨れ上がっていく。

不機嫌最高潮な俺に香也は笑って

「お疲れ様、忙しそうだね」
なんて。何で笑っているんだ?
笑っているのは喜ばしい事なのに、変に勘ぐってしまう。

「マスター。ブレンド宜しく」
思ったより低い声が出て自分でも驚いた。

「何かあった?」
心配そうに俺の顔を覗きこむ香也。
何だか香也は嬉しそうだな。そう言いたいのをグッと堪えた。

メールの相手は美佐あたりだろうか。
そう思いながら、香也の質問には答えずに逆に香也に問い掛けた。

「香也は? 何か良い事でもあった?」
これで美佐からの情報源とでも言って楽しい話しの一つでも聞かせてくれたら、俺の鼓動は鎮まるのじゃないだろうか。

「べ、別に良い事なんて特に無いよ」
そういう香也の顔が少し赤らんだように見えるのは気のせいなのだろうか。

早急に問いただしたい気持ちをグッと堪え、淹れたてのコーヒーを口にした。
いつもよりも苦く感じたのは気のせいじゃないだろう。

外で食事する予定だったが、平日だからと渋る香也を無理やり部屋まで連れてきた。
香也の着替えもクローゼットに並んでいる。
泊まったところで何の問題も無いはずだ。

幸い冷蔵庫の中にはいくらか食材がある。
肉を焼いて、サラダを作って味噌汁があればいいだろう。
初めに米を研ぐと、イラついている頭を冷やす為シャワーを浴びる事にした。

「キッチン適当にやってるね」
香也の言葉を聞いて少しだけ安堵して、浴室へと続くドアを開くと香也の携帯が鳴り思わず足をひそめた。

「うん、大丈夫。今俊平の部屋だけど、シャワー浴びに行ったところだから」

盗み聞きなんて性に合わないがそんな事を言ってる場合じゃないのはその後の香也の言葉を聞いたからだ。

「中々進展しないよ。やっと映画に漕ぎつけたけどデートって言う感じじゃ無かったな。でも手を繋げたから進歩ありかも」

一瞬何を言っているのか解らず、何度もその言葉を頭の中で繰り返した。

映画、デート、手を繋ぐ?

香也が浮気するなんて、そんな事考えたくもないけれど。
さっきの喫茶店で嬉しそうな顔をして携帯を見つめる香也の顔をみたら……
そんな俺の事なんて考えもしない香也は飛んでもない事を言いだした。

「告白なんてまだ無理だよ。振られちゃったら立ち直れないよ」

頭の中が真っ白になった。