贅沢な願い事

恋したい? 2
浴室の壁にシャワーヘッドを掛けたまま、冷たすぎる水を全身に浴びた。
収めようとしていたはずなのに、細かく振動する鼓動は更に勢いを付ける。
香也の言葉を空耳だと自分に言い聞かせるも、あの楽しそうな声は消えてはくれない。
誰と話しているのかなんてどうでも良かった。

香也が映画を見て、手を繋いだのは誰なんだ。
告白? 告白なんかさせるものか。
そう意気込んでみるものの――。

香也は本気でそいつがいいのか?

先週の土曜だって、そんな素振りは見せなかったじゃないか。
いや、素振りはあったかもしれない。
普段は見もしない携帯を気にしていたような。

誰にも隙を入れさせていないつもりだった。
香也だって俺の事……

クソっ。
別れてなんかやるものか。

シャワーを止め、顔を叩き気合を入れた。
誰にも渡すつもりは無いから、と。

バスタオルを腰に巻き、リビングへ出ると香也はキッチンで味噌汁を作っているところだった。
ふと目に入るテーブルに置かれた香也の携帯。
これを見れば、相手が解るのか?
やってはいけない事だと思うのは重々承知だが、思わず手が伸びそうになる。

香也の携帯はメールの着信を告げている。
ただそれだけの事にこれほど動揺するなんて。

「香也の携帯、メール着てるぞ」
俺の声は柄にもなく震えていた。

「ああ、きっと大した事ないよ。あとちょっとでこれ終わるから」
少しだけ頬を赤らめてそう言う香也に、どうしようもない不安が襲ってくる。
伸ばし掛けた手を再び出して、香也の携帯を掴むとそのままキッチンにいる香也の元へと向かった。

「もしかしたら、仕事かもよ」
今日は平日だ。そうじゃないとも言い切れないだろうと尤もらしい言葉で香也に携帯を差し出す。
もしかして……そう思ってしまう気持ちを抑えるのに必死だった。
伸ばした手が震えていた。

「後でいいって言ったのに」
そう言って手を出した香也は俺の手に触れると

「冷たいっ。俊平冷たすぎるよ。震えてるじゃない。早く服着てきなよ」
一度手に渡った携帯をシンクの脇に置くと俺の背中に手を当てて、部屋へと促そうとする。
もしかして俺がいると見れないとでもいうのか?
一度疑心が浮かんでしまった俺はどうしてもその気持ちが消えてくれなかった。

香也に背中を向けたまま

「誰からだった?」
我慢が出来ず、そう言ってしまった。
冷静で落ち着いて大人の男なんて出来っこない。
まるで子どものようだと自分でも解っていた。
どうしようもなく醜い独占欲。
香也は呆れたようにため息をつき携帯を手に取ると、メールの画面を開いて

「回転すしの広告メールです」
と皿の上に怪しいまでのテカリを帯びたまぐろの写真を突きだされた。

だけどまだ、疑惑が晴れた訳ではない。
さっきの電話は紛れもない現実の事なのだから。

「ほらほら、本当に風邪引くよ」
子どもじみた事を言った俺に優しく諭す香也は、本心からだよな。
もう訳が解らなくなっていた。

香也が誰と付き合っても指を咥えて我慢していたあの頃の俺はもういないんだ。
寝室に入り嫉妬で狂いそうになりながら、寝巻替わりのスエットに袖を通した。

何からどう聞けばいいのか、解らないままリビングに戻ると、食事の支度を終えた香也がにっこり微笑みながら俺を見て言った。

「今週末、映画に行かない? 最近行ってないよね」

最近行ってないだと?
俺が知らないと思ってそう言っているのか?
香也はそんな事する奴じゃないのは自分が一番良く知っているはずなのに、全身の血が逆流してかーっとなった俺は思っていた事をぶちまけてしまった。

「最近行ってない? 俺が知らないとでも? 誰と手を繋いだって? 告白はまだ出来ないってどういう事だ。俺は絶対別れないから。香也は俺のものだ。誰にも渡さない」

言い終えた直後に後悔した。こんな風に感情的に言うつもりなんか無かったのに。
香也を責めるように言い放った言葉。
言ってしまった言葉を取り消す事なんて出来ないのに、怖くて香也の顔が見れなかった。

俯いた俺に届く香也の焦った声。
やっぱり……
項垂れたままの俺に小さな尻つぼみの声が届いた。

「俊平。それ誤解だから」

「言い訳か?」
誤解と言った香也の言葉が信じられずにまた責めるような言葉を言ってしまった。
そんな事言いたい訳じゃないのに。
だけど、誤解だと言った事にほんの少しの安堵もありやっと香也の顔を見る事が出来た。
香也は薄くほほ笑むと、携帯を手を持ち
「ゲームなんだ。まだ開発中のアプリなんだけど。モニター頼まれてね。恋愛シミュレーションのゲームだよ」

香也の言っている言葉を理解するまで少し時間が掛ってしまった。
んじゃ何だ? 俺はゲーム相手にこんだけ苦しんだのか?
気が抜け過ぎて、ソファにどさっと座りこんだ。

本当に、もうやってらんね。
自分がアホ過ぎて笑えねえ。
まだ渇ききってきない髪に両手を突っ込むと
「ダーっ」 と訳の解らない雄たけびを上げた。

すると、ゆっくりと沈むソファ。
香也がそっと俺の手に手を添えて
「凄く嬉しかったよ。私だって別れてやらないんだから」
と寄り添ってきた。

香也の背中に手を回し、抱きしめようとした瞬間。
香也はすっと立ち上がり、何事も無かったかのように

「ご飯冷めちゃうから」
とテーブルに行ってしまった。
寸でのところで香也の背中に届かなかった手が宙を彷徨う。

「ほら、早く」
とせかす香也に降参とばかりに、俺も立ち上がったのだった。