電車通学

ケーキの甘さ
郁がゆっくりと袖を通し始めて、思わずごくりと喉が鳴りそうになるのを必死で堪えた。
この静まりかえった部屋の中で、喉が鳴ったら絶対きまづくなるって、それ以前に恥ずかしすぎるだろ。
思った通り俺の学ランは郁には大きくて。郁の制服の上からでも余裕で着れる大きさだ。
少し斜を向いた郁が一つ一つボタンを嵌めるのをじっと見つめてしまった。
なんか、ちょっと――あれだな。いらない妄想が頭の中を駆け巡ってしまう俺。

最後のボタンを留めた郁がちょっと俯いてこちらに向き直す。
まじやばいって――。

「やっぱり圭吾君って大きいんだね」
なんて。離れた場所に座ってしまった事に後悔したり。
同時に沸き上がる心配。これ見て何とも思わない奴がいるのだろうか?
全く初めに応援団なんて言いだした奴らが恨めしいったらない。
俺は無意識に顔を顰めてしまったようで

「変かな?」
と聞かれてしまった。慌てて

「似合ってるよ」
と言い返してみたものの女の子に学ラン似合うってどうなんだろう? 

俺の言葉で顔を緩ませると、「じゃぁ」と言って背中を向けた郁は直ぐにボタンを緩め始めた。
着る時もそうだけど、目の前でボタンを外されるっていうのも結構くるもんだ。疾しい気持ちを悟られないように、俺もまた背を向け頭の中に沸き上がった妄想を打ち消そうと話題を考えるのに必死になったりして。
それにしても、俺の部屋の中に郁がいるって。
結局はそこに考えがいきついてしまって。
話題のかけらも出てこなかった。

気がついたら郁はもう学ランを畳んでいて
「汚さないように気を付けるからね」
とすっかりいつもの制服姿になっていた。

「別に気にしなくてもいいよ」
ちょっと残念な気持ちとちょっとほっとする気持ち。
何でか解らないけど、正座をしている郁。
もしかして、郁まだ緊張している?
ちらっと見える膝頭に、俺やっぱり何もしないなんて出来ないかも。
ドクドクと心臓が跳ねているのはどうにも抑えられないようだった。

そんな微妙な雰囲気を壊してくれるのもまた郁だった。
それはとっても郁らしくって。

くぅーと遠慮気味? に鳴った郁のお腹。
目の前のケーキをお預け状態だったからな。
真っ赤になった郁の顔。
はいと手渡したケーキを膝元において

――なんでこう言う事聞かないかな、私のお腹――

きっといつもの独り言。
そんな郁が堪らなく可愛かった。
ケーキを持ってさりげなく郁の隣に座ってみたものの。

恋愛マニュアルなんて類の本、読んだ事がなかったけれど、もしかして読むべきだったのかもしれない。
無邪気そうにケーキを頬張る郁。
ベタな漫画で、頬についた食べ物を……
駄目だ、そんな事出来ない。
だけど、視線はしっかりと郁の口元にいってしまっている俺。

今まで、いくらだってチャンスはあったはずなのに。
偶にしか会えなかったから。
気まずくなったら嫌だから。
ゆっくり進めばいいと思ったから。

全部、俺の逃げだ。
大丈夫。きっと郁は俺の事――。

「圭吾君?」

ふいに名前を呼ばれ、頭の中を見透かされたのではないかとちょっと焦ってしまった。

「ん?」
なんて返してみたものの。やっぱり口元に目がいってしまって。
俺の視線の先に気がついた郁が

「もしかして、ついてる?」
なんて口元を拭い始めた。

もう、限界だった。


「郁」
名前を呼ぶものもどかしい。

郁は口元にあてた手を下ろして、顔を上げた。
反対に俺はゆっくりと郁の頬まで手を伸ばして






郁の身体が強張ったのを感じたけれど、俺は郁の唇に自分の唇をそっと重ねた。


これまでで一番じゃないかと思うほど、顔を真っ赤にした郁。
唇が離れた今も、固まったままだ。

やっぱり駄目だったか?
少し不安になりかけたその時、郁の口が開いた。

「圭吾君、大好きだよ」
と。


それはとても嬉しい言葉だけれど、郁さん、俺を煽ってどうするんだよ。
必死で堪えているっていうのに。

「俺も、郁の事大好きだから」


ちょっと前までは陳腐に思えて仕方がなかった台詞。
こんなにもしっくりくるもんなんだと知った。

唇の端に少しだけ感じたケーキの味。
甘さ何て、分からなかった。