迷いみち

12話
翌日は、冷たい空気ながらも、良く晴れたいい天気。
早い時間から車で1時間程行ったところにある水族館に父母が子供達を連れていってくれた。
お陰で、この家は静かだ。
結婚して10年以上たっているから、私の部屋なんてとうになくなっている。
暫しの滞在に与えられた、8畳の和室。
当たり前だけど客間だ。

私はお客さんなんだよね……

昨日の晩ちょっと過った。
ここにいた方が子供達にとったら幸せなのではないだろうかと。
私が口を開いたら、いつまで続か解らないこの状態。
父や母には心配もかけたくないから、今は言えっこないけれど。
ふとした時に思い出す、あの日の旦那の声に一人悶々としているのは確かだった。

純ちゃんーいる?
玄関から美香さんの声。

「はーい」
返事をしながら顔を出すと

「これ、さっき貰ったの。純ちゃん好きだったでしょ、温泉まんじゅう。一緒に食べよう」
美香さんはそう言って温泉まんじゅうの箱を左右に振った。


「これ、良いお茶っ葉なのかな? うちのとは格段に味が違うんだよね」
実家のお茶はいつきても美味しく感じられた。ここに居た時は思った事も無い事だった。

「お義父さんもお義母さんも御茶好きだからね。取り寄せているみたいだよ。私もたまに貰うから」

好物の温泉まんじゅうに、美味しいお茶、それに楽しいおしゃべりは最近味わった事のない至福のひと時だった。
けれど、1時間程たった頃、美香さんの声が突然真剣なものに。

「何かあった?」
と。

虚を突いたその一言に私の顔は固まってしまう。
美香さんはじっと待ってくれていた。

「うーん。実はちょっとだけ落ち込んでいるかな。でもね、ここに来てすっごく気分がいいの。もう少し私の中で整理がついたら話すから、その時は聞いてくれる?」
精一杯の笑顔を作ってみせた。

「そっか、いつでも話したくなったら話してね。何でも聞くから。あんまり思い詰めちゃ駄目だよ」
まだ若かったあの頃。
恋の相談にのってくれた事を思い出した。
あの時と変わらない美香さんがとっても嬉しくって、気を許したら涙が出てきそうだった。
目の前にある温泉まんじゅうを口に頬張りながら

「美味しいね」って何度も口にしてしまった。

その後は昨日同様、雑談をしてあっという間に時間が過ぎていった。
「ねぇ。今日は私とお義母さんが夕飯を作るからたまには、外に行ってみたら? 何も待ち合わせの時間に行かなくたっていいでしょ、今から早めにでて気分転換でもしてきなよ、ほらっ」

私の湯のみを取り上げて、残り少なくなった温泉まんじゅうと共に台所に持っていってしまった。

「そうしようかな」
小さく呟いたはずの私の言葉が聞こえたみたいで

「そうだよ、そう。子供達っが帰ってくると出ずらいから今のうちだよ」
そう言って私を送り出してくれた。


外に出るって言っても。
あても無く家を出るなんて最近したことないからなぁ。
ましてや、とうの昔に出てしまった地元。
昔馴染みの場所を順に思い出していくと、一つだけ思いついた。
そっか、あの喫茶店。

一度思いついたら、足取りは軽かった。
バス停でバスを待って、4つ目の停留所。
学生の頃は何度となく足を運んだその場所。
ドアのノブに手を掛けて、中に入るとそこは昔と変わらない私の思い描いた通りの場所のままだった。
ただ
「いらっしゃい」
と声を掛けてくれたカウンターの中の人は見知らぬ人だった。

世代交代かぁ。

昨日の車の中での美香さんの言葉を思い出した。
あのマスターじゃないんだ。
渋いおじさんだったマスター。
黙っているとちょっと怖い感じがするんだけど、実は話すととても面白くって。
カウンターに座る事しか頭になかったけれど、あのマスターじゃないと意味がないかもと、私は外が見える窓際の席に腰を下ろした。

メニューは昔と変わっていなかった。
あの頃は、マスターの奥さんが作るチーズケーキが美味しくていつもケーキセットを頼んでいたんだよなと。
コーヒーだけを頼むつもりだったけれど、メニューを見ていたら無性にそのケーキが懐かしくって、思わず頼んでしまっていた。温泉まんじゅうをいくつも食べたというのに。

サイフォンでいれるコーヒーもかわっていないようだ。
コポコポとお湯の落ちる音が心地よい。
合わせて香ってくるコーヒーの香りもとっても気分をゆったりさせてくれる。
結婚して、こんなにゆっくり自分の時間を持つなんて初めてかも。
一人で喫茶店なんて、あそこじゃ行った事なかったからな。
最後にこうやって一人でコーヒーを頼んだのは、結婚する前。
旦那と付き合っていた時に待ち合わせをしていた時だったと思う。
あの頃は楽しかったんだよな。
それが今じゃこんな事になるなんて。
そこまで考えて頭を振った。
やめやめ、今日は楽しむんだからと、無理に頭の隅においやった。

コーヒーがくるまでの間、喫茶店の窓から通りを歩く人をじっと眺めていた。
うちの方より少し年齢層が高いかも。
程なくして、若いマスターがコーヒーとケーキを持ってやってきた。

「お待たせ致しました。」
とテーブルに並べられたそれらは昔とちっとも変っていないようで。

アンティークコーヒーカップに、シンプルな飾りのチーズケーキ。
期待を胸に、チーズケーキにフォークをいれ口に運んだ。

あの味だ。

思わず視線をカウンターに向けてると、若いマスターと目があった。
彼は私に軽く会釈をしてほほ笑んでくれた。
何となくだけど、その笑い顔はマスターに少しだけ似ているような気が。
知らぬ間に顔がほころんでいる私がいた。

あの頃は苦くて飲め無かったブラックコーヒー。
いつも、ミルクをたっぷり入れてたっけ。
大人になるに従って、段々とカロリーを気にするようになり、年と共に減っていったミルクの量。今ではすっかりブッラク派。
今日もいつものように何も入れず、ブラックコーヒーを味わった。
すっきりとした苦み、程良く効いた酸味のバランスは私好み。
それから、ゆっくりとコーヒーとケーキを味わって席を立った。
伝票を持ってレジにいくと、後ろの棚にあのマスターと奥さん、そして小さな子供の写真が飾ってあった。
若い彼は私の視線を辿って
「やっぱり祖父を知っているのですね」
と話しかけてきた。

「はい。やっぱりと申しますと?」
疑問を口にしてみる。

「チーズケーキを知っている方だなと、思ったもので」
と写真に目を馳せた。

レジの前でおかしなものだが、私達は話が弾んでしまった。
立ちながら、前のマスターが腰を痛めて引退した事。
マスターの息子さんが会社勤めをしているので、お孫さんである彼が後を継いだ事。
そして、チーズケーキを作る練習をしているが中々上達しない事を話してくれた。
チーズケーキは昔同様奥さんが焼いているもので、一日限定1ホール焼いてくれるのだそう。
次に来る時までにはチーズケーキ頑張りますので、今度は是非カウンターにお座りになって下さいと言ってくれた。
実の事をいうと次なんてないかもしれないけれど、千円札を渡しながら
「そうですね、頑張って習得して下さいね」
と言ってしまった。

来た時同様、カランと澄んだ音のする鐘の音を聞きながら喫茶店を後にした。