迷いみち

15話
メールの返信を打てないまま一夜明けてしまった。
いろいろと考えてしまって、眠る事なんて出来なかった。

隣に並んだ布団で無邪気そうな寝顔を浮かべる子供達をみると尚更だ。
この子達はまだ父親を必要としている。
休みの日だって毎週いないわけではない。
罪悪感を感じているだろう旦那、一緒にいられる休日はまるで罪滅ぼしをするように子供達をかまっているのだから。

だけど私は?
私はそれでいいの?
自問が続く。

好きになってはいけないと思う一方で、好きなだけならいいじゃないと思う自分も少しだけだけどいるのも確かだった。
家庭を壊すつもりなんて、全くない。
ただちょっとだけ、自分を必要としてくれる人に出会いたいだけなの。
身体の関係だって望んでなんかいないんだ。
ただ、優しい言葉を掛けてくれるそんな相手が欲しいだけなの。

天使と悪魔じゃないけれど、昨日の晩はこのセリフの繰り返しだった。
実際、アラケンは私とどうこうなろうとは考えているはずもないんだから。
ただちょっと同郷のよしみで、子供達の事を考えて私を気に掛けてくれるだけなのだから。


障子からは通りの向こうの外套の明りが透けてみえる。
真夏だったらもう明るいのだろうけれど、冬至を過ぎたばかりのこの季節、障子越しの外の世界はまだ暗闇に包まれていた。

寒さで震える身体を両手で抱え、ガウンをはおって部屋を出た。
両親の朝は早い。
台所からは、ストーブで暖められた独特の空気とお味噌汁の香りがした。
「あら、まだ寝てても良かったのに」
そんな言葉が、胸にしみる。

「うん、何だかね」
テーブルに頬杖ついて、籠においてあるミカンを一つ手に取った。
庭で取れた不格好なミカンは、奥歯の奥から唾が一気に押し寄せるほど酸っぱかった。

口を窄め、目を瞑る私を見て
「あんた、そのミカン食べてそんな顔するなんて、すっかり都会の人になっちゃったんだね」

都会の人になちゃったんだね……

帰ってきてもいいかな?
そんな言葉が出てきそうになる。
私の家はここじゃないんだよと遠まわしに言われているようなそんな言葉にも取れてしまった。神経過敏になりつつあるのかもしれないな。
のこりのミカンを心して食べきった。

「何か、あったんだろう?」
リズミカルに動かす包丁を止める事なく、そう告げた母。
まるで、今日も寒いねと言っているみたいなそんな流れ。

身体の奥から押し寄せる波を必死で堪えようと、きつく目を瞑り歯を食いしばる。
安心させる言葉を発しようとするも、堪えるのに必死で声を出せない。

母は振り向きもせずに、包丁を動かし続ける。
母の背中が大きく見えた。
子供の頃に戻ってその大きな背中にしがみついて大きな声で泣きわめけたらどんなにかいいのだろう。
子供を2人も産んでさえも、母の愛にすがりつきたくなるなんて。

でも一度泣きだしたら、きっと涙は止まらないだろう。
私は台所に背を向けて、テレビのリモコンに手を伸ばした。
年の瀬も近づいたこの時期は特番ばかり、早朝だというのにお笑いの人達が芸を振りまいていた。いつもだったら、うざったく感じるその人達に今は救われた。
普段だったら、とうてい笑う事の出来ないだろうダジャレに、思いっきり反応して口を開けて大笑いしてしまった。
私はテレビを見ながら

「大丈夫だから、ごめんね心配かけて」
台所に立つ母親にやっとの思いで声を掛けた。

「ただいま」
新聞を片手に、散歩に行っていた父が帰ってきた。
冷たい空気にさらされて、頬も耳も真っ赤。

「おっ、今日は豆腐の味噌汁か」
母の隣に立ちお鍋を覗きこむ父。
そんな父に「早く汗拭かないと風邪引くわよ」
と声を掛ける母。
理想的な夫婦なんだよな。子供の頃から私の見た父母はいつもこんな感じだった。

父が頷いて、台所を出ると思いもかけない言葉が。
「うちもいろいろあったんだよ。あんたが知らないだけでね。昔があって今がある。だから、あんたもそうしなさいとは言わないけれど、子供達の前でみっともないとこだけは見せちゃ駄目だよ。それは絶対」

背中をむけたままの母の言葉。
衝撃的だった。
これっぽっちもそんなそぶりは見せなかったのだから……

その後も母は何事もなかったかのように、朝食の支度を続けて。
「ほら、出来たから。お椀にご飯よそって、あんたも運ぶの手伝って。終わったら子供達起こしてきなさい」

どんな顔をして先程の言葉を放ったわからない。
淡々と語られたその言葉からは、きっと母も苦労をしたのだろう。
今の、否、昔だってこうやって両親をみていると、とても考えつかない。
恭平が気がついた私の変化。
駄目だな私と、自己嫌悪に陥った。

子供達と食卓を囲む。
先程の言葉を胸に、なるべく平常心にと思うのだけれどもどうやら、気負い過ぎてテンションが上がりすぎてしまう。
母が、あんたって解りやすいわよね。
とぽつりと一言。
正直どうする事も出来なくて、手早く朝食を食べ終えて席を立ってしまった。
そのまま台所に立って洗い物をする。
水道水が温まるまでの冷たい水を手にすると、キーンと指先が痺れる。
背中も反射的に丸まってしまう。
早く温まってよと、洗剤を付けたスポンジを何度もクシュクシュと握ってしまった。

そのうちに、父も子供達も食べ終わりさっきのように、母と2人の台所。
子供達は父に将棋を教えて貰うんだと、はしゃぎながら父の部屋と向かっていった。
父も無くなってしまうんじゃないかというほど、目を細めその姿を追っていった。

「何かあるの、さっきから携帯を気にしているけれど」
めちゃくちゃ鋭い母の指摘。
そう私は、携帯を気にしていた。
未だに昨日の返事をしていない。
電話をすればいいだけの事なのに。
今日は遠慮しておくって言えば済むことなのに。

解っているけれど、解りたくないというか、夢を見ていたいというか。
揺れる気持ち。
何も考えずに出掛けてしまいたい。
向こうに帰ったら、絶対そんな事なんて出来るはずもないのだから。

でもさっき思った。
やっぱり私は旦那と一緒にいるべきなのかもしれないと。
子供達の笑顔を奪ってはいけないと。

だから、今日でこの思いを忘れてしまおう。
だから、今日だけ。
今日で最初で最後にするから。

ただの、昔の同級生。
ただの、子供担任として。

明日からは、ちょっぴりだけ育ててしまった淡い思いを捨てるから。
そう決意してしまったのだった。