迷いみち

16話
「母さんあのね」

思いきって話し掛けた。
なるべく顔に出さないようにと細心の注意を払いながら。

「昨日話が出たのだけど、こんな機会滅多にないから、今日昼間、集まれる人で集まらないかって。勿論無理にとかじゃなくてあくまで集まれる人ってだけなのだけど――」

2人で出掛けるなんて言えるはずも無かった。
だけど母は何か感じたのかもしれない。

「はめをはずしちゃ駄目だよ」
それは私が出掛ける事を肯定したうえでの言葉。

「解ってる、なるべく早めに帰ってくるから」
母はそう答えた私の顔をじっと見つめて

「解った」
と一言だけそう言ったのだった。
これ以上ここにいると顔に出ると言われた私、また母に何か言われてしまいそうで着替える為に和室へ向かった。

時計の針は8時半を指していた。
私はゆっくりと携帯を開き、アドレスを出す。
緊張しながら親指を動かして、携帯を耳にあてた。
コールが響くその時間、私はじっとしていられなくて、立ちあがって障子を開けた。
目の前には子供の頃いつも見ていた風景。
お隣の青い瓦が陽に照らされて光っていた。

「みんなでドライブかと思ったよ」
コールが止んだ途端に聞こえたアラケンの声。
その声は柔らかくって、多少の笑い声を含ませたようなそんな声。

「そうしようかと思ったけれどね。恭平達は将棋の方がいいみたいで」
アラケンの事なんて何にも言ってない癖に、笑っちゃう。
本当はドキドキでいっぱいだった。

「いいのか?」

「うん。気晴らしにドライブ連れて行ってくれるんでしょ」
気持ちを見透かされないように、おどけていってみる。



そして、10時に近くの公園で待ち合わせをした。
子供の頃、暗くなるまで遊び続けたあの公園。
アラケンも遊んだ事があると言っていたっけ。

電話を切っても胸のドキドキは収まらなかった。
本当に一緒に出かけてしまって、大丈夫なのだろうか。
忘れると言ってはみたものの……
思いっきり首を振って、考えた事を吹き飛ばす。

結婚指輪をそっと撫でて、私の帰る場所はあそこしかないのだからと、気の合う友人とちょっと気晴らしに出掛けるだけなのだからと、何度も何度も自分に言い聞かせた。
だけど、そうは思うがそわそわしてしまう私。
着替えも済ませて、後は待ち合わせの時間に行くだけ。
下の階で母さんと一緒にいたら、あの鋭い母さんの事、私が思っている以上の感情を読み取ってしまうに違いない。そう私が認めてはいけないと思っている感情を。
暖房も入れていないこの暫しの滞在をするためにあてがわれた和室。
私は部屋の隅で膝を抱え、静かに時を待った。
偶に聞こえる子供達の声。
きっと白熱した将棋になっているのだろう。
楽しそうな笑い声が聞こえると私はいったい何処に向かっているのだろうという気持ちでいっぱいになってしまう。
膝がしらに顔を埋め、耳を塞いだ。
私の心臓の音がダイレクトに響く。

今日だけだから。
それは子供達に対しての懺悔だったのか、自分の弱さからの逃避だったのか。

今日だけだから楽しませて、そう思う気持ちと行っちゃいけない。
そう思う気持ちのせめぎ合いは、待ち合せのその時間まで続いた。

結局のところ自分勝手な思いが勝ってしまい。
私は真っ白なダッフルコートを手に取った。

子供達に気づかれないように、静かに階段を降りると、台所にいる母に声を掛けた。
視線を合わせられないのは、自分の負い目があるから。

「気をつけてね」
何になのか。母が言った言葉を勘ぐってしまうのは、やましい思いがあるから。

私はいってきますと一言だけ残して、冷たい風の吹き付ける玄関の外へと足を踏み出した。
一歩一歩が重たく感じられる。
普段着にスニーカー。
コートだって実家に来る時に着てきたものだ。
一つだけ迷ったのは、昨日買ったセーターだった。
袋から出して、広げてみたけれどズキンと胸が響いてしまい、元のように畳んで袋にしまったのだった。

待ち合わせの公園には20分も早くに着いたというのに、そこにはもうシルバーのステーションワゴンが止まっていた。
高鳴ってしまう鼓動に、静まれと念を送り、助手席の窓をコンコンと叩くと、シートを寝かせ目を瞑っていたアラケンがゆっくりと目を開けた。

助手席の窓が下がり
「空いてるよ」
とドアを指さす。

私はドアに手を伸ばした。

「ここでいいの?」
足を踏み込む前に一応聞いてみた。
アラケンは豪快に笑って
「2人で車乗るっていうのに、お前はどこぞのセレブなんだ」
と。
そういう意味じゃないんだけど……
苦笑しながら、私は足を踏み入れた。

「さてと、お嬢様本日はどちらまで?」
さながら、運転手気どりで私に問う。

「じゃあ、お勧めのコースで」
真直ぐ前を見据えたままの私の声は、少し上ずってしまった。

「大丈夫だって、取って食おうとは思わないから」
アラケンの声はそんな皮肉めいた言葉でさえ、私をドキドキさせるに十分だった。