迷いみち

17話
「……綺麗」


目の前には遮るものが何もない、果てしなく広がる紺碧。
1時間程車を走らせたそこは、とある海岸だった。

冬の海は何処か哀愁を漂わせるような、演歌に出てくる日本海のようなイメージがあったのだが……
頂点に上がりきる前の陽の光が斜めに当って水面を反射している。
言葉を発するのも忘れただただ見入ってしまった。
アラケンも何も言わずに隣に寄り添ってくれている。
その距離感がどうしようも私の心を目の前の海のようにさざ波立てた。

半歩開けたアラケンと私の距離。
夫婦でも恋人でもない。
それを良く物語っていた。
流石に、この季節コートを着ているとはいえ冷たい海風は身に堪える。
私は両腕で自分を抱え、とうとう寒さも限界になったようで人う身震いしてしまった。

こんな時、恋人だったら肩を抱いてくれたり、後ろから抱きしめてくれるだろう。
封印しているネットの恋愛小説のシーンを思い描いた。
改めて自分の少女趣味を……何歳になっていうのよね……

でもこの距離が私の現実で、望んではいけないシーンなのだ。

「この先に結構評判のパスタ屋があるんだ。そろそろ飯にするか」
全身に浸みこむようなアラケンのしっとりした声。
私は水面を見つめ大きく頷いた。

その後に向かったパスタ屋は本当に美味しかった。
結婚してからというもの、外食なんてファミレスか回転すしくらいなもの。
こんなお洒落なお店になんて、縁が無かった。
素敵な店に、美味しい食べ物、そして楽しい会話。

アラケンの話は昨日会った同級生の事や学校の話、私の知らない恭平の話とか、本当に話題は尽きなくて。
時折見せる屈託ないアラケンのほほ笑み。
今だけは時間も進みを遅くしたい、少しでも長くこの時間を、と願ってしまう私。

子供達との時間も私にとって大切な大事な時間だけれど、初めて知った恋のようにときめいてしまう私がいた。
こうやって、人を好きになっていくんだよな……
ちょっとだけ現実に戻って、戒めのように椅子の下で左手の指輪をさすった。

ケーキを頼んで、コーヒーをおかわりして。
気がついたら自分達の周りの人は皆、違う人に入れ違っていた。
私にとったらあっという間の時間だったが、時はちゃんと進んでいたらしい。

「そろそろいくか」
私にはそれを遮る言葉なんて出せないのに。
私はにっこりと微笑みかけ、伝票を手にした。

「割り感ね」
そう言った私に、アラケンの顔が一瞬曇ったのがはっきりと分かった。
だけど奢られる理由なんてないから。
私は、そのままレジへと向かった。

会計を済ましている時にレジの隣にある、小物売り場が目に入る。
正確にはイルカのガラス細工がついてある携帯のストラップ。
ちょっとだけ視線を投げたつもりだったのに。
私の目の前を、すーっと長い腕が通り抜けた。

イルカのストラップを一つ掴むと、それをレジのお姉さんに渡して千円札を一枚取り出すアラケン。
私はその遣り取りを見つめていた。
アラケンはそのイルカのストラップをポケットにしまうと
「車の中、寒そうだな」
なんて。もしかして私に? と考えてしまった自分が恥ずかしかった。

帰りの車内は、私を現実の世界へと引き戻す為の執行猶予みたいなそんな時間。
これは夢だったのだ。そう思わなければいけない。
アラケンの言葉も心なしか言葉少ないような気がする。

ラジオから流れるゆったりとした名を知らない洋楽と程良い車の揺れが、寝不足だった私に一気に眠気となって襲ってきたようで。


「着いたぞ」
アラケンの言葉に私は本当に眠ってしまった事に気がついた。
目を開けるとそれは数時間前に待ち合わせをした公園。

バツが悪くて
「寝ちゃったのね」
目を伏せ、ありのままの言葉を発してしまった。

「気分転換出来ただろ? また――」

「ありがとう、凄く楽しかった。でも次は無いと思う。こんな機会向こうじゃ作れないし、それに……」
アラケンの言葉を遮って、そう口にしたのに思わず余計な事を口走ってしまいそうで言葉を濁した。
察してくれたのだろうか、アラケンも
「そっか、残念」
それは社交辞令みたいなそんな言葉。

「じゃあ、本当にありがとう。良いお年を」

「あぁ、お前もな」

私は振り返る事なく、その場を後にした。
少しの間の後、車のさりゆく音が聞こえた。
終わっちゃった。
ここ何年も味わった事のない感覚だった。

また……

アラケンは「また」と言ってくれた。
もう無理だよ。
またなんてあったら、私はそれこそ。
苦しい思いをするのはもう嫌だ。
家の中だけで精一杯なのだから。

儀式のように冷たい空気を身体一杯に吸い込んで、さっきまでの私と決別した。

実家に戻ると、玄関先で出迎えてくれる子供達。
「「おかえり」」
子供達は余程将棋がお気に召したようで、競うように我先にと今日の武勇伝を語ってくれた。子供達を纏わりつかせながら、廊下を歩いた。
居間に座っている母に一言
「ただいま」
と告げると
「案外早かったわね」
と。
「ちょっと、ランチしてきただけだから。コート置いてくるね」
何も疾しい事は無かったとはいえ、私は母のその言葉に含みがあるように思えて逃げるように居間を後にした。

ダッフルコートを脱いでハンガーに吊るす。
もう二度とないだろう、アラケンと2人で過ごす時間。
このコートだけが知ってくれればいいんだよね。
愛しむようにコートを撫でると、ポケットに膨らみを感じた。
おもむろに手を入れると
そこにはあの店にあったイルカのストラップ。
袋にさえ入っていなくて、お店のテープが斜めに張ってあるそれは、紛れもないアラケンからの私へのプレゼントだ。
プレゼントなんておこがましいかもしれないけれど。

好きになりたくなんてないのに……
ストラップを手に握り締めて、泣きそうになるのを必死で堪えた。