迷いみち

18話
「今週末、大丈夫よね?」
玄関で靴べらを渡しながら旦那に話しかけた。


「水族館だろ? 必ず行くさ」
そう言いながら、靴べら片手にストンと踵を落としていく。

「いってきます」
との言葉と同時に私に靴べらが帰ってきた。
それを両手で受け取り

「いってらっしゃい」
と旦那を見送った。

ちょっとだけだけど、あれから私達の関係は違ってきたと思う。
子供もそれを敏感に感じている。
恭平は、週末の予定を立てるようになった。
以前は、私が留守番というパターンが多かったのに、今は家族で出かけようと計画を立てるのだ。とても真剣な顔をして、ノートに計画を書きこんでいる。時にはクラスメートにリサーチする事もあるらしい。
だから私と旦那はそれにこたえる。
まだ仮面は外れた訳ではないけれど、右目くらいは仮面から脱出しているかもしれない。
子供らしく、突拍子もない計画を立てる事もあるのだが、大抵は恭平の計画を受け入れていた。
日曜日は水族館かぁ。
昨日食べた、アジが頭の中を泳いでいた。

昼間、メールの着信を見つけると、自分からアラケンにもうしないでと言ったにも関わらず、少しだけ期待している自分がいた。
もしかして……という期待を。

あれから。
麻里からは何の連絡もなかった。
どうしているのか、気になってはいるものの、麻里の隣にアラケンがいるのかもしれないと思うと、連絡する事を躊躇してしまう。
そんな時決まって、私は左手の薬指に嵌めなおした指輪をさする。
私は結婚しているのだからと。

最近はパソコンも埃を被っている。
きっと今ならば自分を重ねるという事はしないと思うけれど、幸せそうな話を読むのは辛くなりそうで、怖かったから。
一度味わってしまった楽しい時間は、私の胸に刻み込まれている。
特に何をしたってことはないのに。
ちょっとドライブにいって、美味しいものを食べて、弾む会話をして。
ただそれだけ。
キスはおろか、手だって触れさえもしなかったのだから。

本当は――
あの震えるような海岸で抱きしめてもらいたかった。
でもそれは望んでもいけない事。

あれ以上の幸せなんて望んじゃいけないんだから。


だけど現実はというと。
旦那と歩み寄っているのは私なのだ。
まだ、来ている深夜のメール。
回数こそは減ってはいるものの、切れてはいないのだ。

唯一の救いはあれ以来、その人との会話を聞いていない事。
もしあの私では無い誰かに囁く旦那の声を聞いてしまったならば。
きっと、私は均衡を破ってしまうかもしれない。

それは恭平と晃平にとって残酷な結末になる事を意味していた。


今日は水曜日。
きっと今夜も、旦那の携帯は震えるだろう。
私の様子を伺って、携帯を手に取り布団を被って返信する旦那を見過ごすのだろう。
旦那は気がつかないだろう、隣のベットで布団を被り歯を食いしばる私を。
メールの事をバレテいないと思っている旦那。きっとこれだけ続くと罪悪感なんて薄れていくのだろうと思った。

その週末、旦那は帰ってこなかった。
残念そうな顔をする子供達と一緒に時を過ごすのは私。
この顔を見せてやりたい。子供達の前では笑顔を作るも、その日をかわきりに以前のように週末出掛ける事が多くなった旦那。
もう2度と、あの頃のように家族で笑う事はないのだろうなと、サイドテーブルに飾ってある家族写真をじっと見つめた。


そうして時はゆっくりと過ぎて行った。

子供達は、小学校を卒業して晃平までもが中学生になった。
もう今は恭平も、晃平も部活に追われ家族で出掛ける事はおろか、一緒のテーブルに着く事さえなくなってしまった。旦那も、出張が増えた。
ようは続いているのだ。私の役目は終えたのかもしれない。
後は私の決断次第。その日は直ぐそこにあるのかも。

麻里は結局、アラケンには言えなかったのだと、年賀状から1年近く音信不通の後、突然呼び出されたオープンカフェで告げられた
今は9も年下の男の子と、ちゃんとお付き合いを始めたのだと、頬を赤く染め、ホットコーヒーをスプーンでくるくる回しながら、教えてくれた。

幸せだーっ
て全身からオーラが出ているみたいだった。

その年の暮れ。
あの時と同じ季節。
自宅に1本の電話が。
何の気なしに取った受話器からは
それは聞きたくて、仕方がなかったあいつの声。

「もしもし、久し振り」
低く響く優しい声。
子供達が在学中に転勤になってしまったアラケンとのやり取りは数年振りだ。

声が上ずらないようにと意識をしながら
「久し振り」
と声を出す。

もうしないと約束したのにごめん
と告げた後で、アラケンは寂しい別れの報告をしてくれた。

あのシワガレタ声で私達を包んでくれたあの先生、水谷先生が亡くなったという知らせだった。

もし、時間があったら最後に顔見に行かないか?
随分と迷った末に連絡をくれたと言ってくれたアラケン。
私は断る事なんて出来なかった。
自分から離れた癖に、いつまでもあの時に見た笑顔が忘れられなかったのだから。
先生には申し訳ないけれど、アラケンに会えるのならば。
私は少し迷ったふりをしながらも

行こうかな

と口にした。

アラケンも昨日聞いたという水谷先生の訃報。
急な話だが明日、お通夜なのだと告げられた。
一緒に連れて行ってくれると言ってくれたアラケン。
詳細を連絡するからと、アドレスを聞かれた。
あの頃と変わっていない私のアドレス。
きっともう消去されているに違いない。
私は一文字一文字、不規則に並ぶアルファベットをアラケンに伝えた。
アラケンは電話をしながら、入力したのだろう、開いたままの携帯が震えた。
携帯の表示は
アラケン
どうしても消す事の出来なかったアラケンのアドレスが再び私の携帯に表示された瞬間だった。メールを確認して、そのまま会話を終え受話器をそっと置いた。
この電話から、アラケンの声が聞こえたと言うだけで電話までもが愛おしく思ってしまったり。
それはまるで初恋をしているような感覚だった。

お通夜か……
壁にあるカレンダーに目をやった。
明日は幸い土曜日だ。
子供達ももう留守番も出来るだろう。
それが出来ないと言うならば、私の実家に連れていけばいい事。

取り敢えずと、私は旦那の携帯に電話をした。
旦那の番号はざっと見渡しても履歴に表示される事は無かった。
最後に掛けたのはもうずっと前なのだろう。
よっぽど、用も会話もないのだなと苦笑してしまった。

数度のコールの後、呼び出し音が止まった。

「もしもし、あなた」
旦那の携帯に掛けたのだから旦那が出るに決まっている。
そう思った私は間違いだったようだ。

「ちょっと席を外しておりまして」
丁寧に名乗ってくれ電話に出たのは旦那の同僚だった。

「そうですか、連絡を取りたいのですが、折り返してくれるよう伝えて頂けますか?」

2呼吸置いた後
「伝えておきます」
とかえってきた。

「失礼致します」
「失礼致します」

携帯を閉じて、遠い記憶を呼び起こす。
多分今のは――
まだ子供達が幼かった頃、会社の飲み会で酔いつぶれてしまった旦那を駅まで迎えに行った事があった。
上司だと名乗る女性が、だらりと身体を預ける旦那を支えていてくれた事があったなと。
まだ、仕事しているんだ。
早くから専業主婦に落ち着いてしまった私には、全く無縁なその世界。
会社の飲み会なんて、2、3度しか出た事がないけれどあの頃は楽しかったよなと当時を振り返る。
その晩。
「伝えておきます」
確かにその人はそう言ったにも関わらず、私の携帯は一向になる事がなかった。