迷いみち

2話

その日の朝は恭平の虚を付いた一言から始まった。

「母さん、今日どの服来てくるの?」

キッチンで朝食の片付けをしている私に投げかけられた息子の言葉。
今日は学年が変わって始めての授業参観日。
遅出の旦那もテーブルでコーヒーを飲みながら、目が点状態で息子を見つめていた。

「まだ決めてないけれど、いつもと同じかな」
そう答えると更に

「あれ、この前着ていた白っぽいやつがいいじゃん。なっ晃平。」
とそっぽを向いて小学に上がったばかりの弟に同意を求めた。
晃平はというと全く感心がなかったらしく不思議顔。

私は笑いを堪えながら
「ほらほら、時計を見て、もう集合時間だよ。」

そう言って子供達を玄関で見送った。

「4年になるとあんな事言い出すだな。奇麗な母さんがいいってか?」
我慢していたのだろう旦那は噴出して笑っている。
私も堪え切れずに噴出してしまった。

「私達が子供の頃の授業参観日って親は殆どスーツだったからね。ここら辺だけかもしれないけれどスーツで来る人は稀よ稀。でもたまにはご期待にこたえてお洒落でもしてみようかしら。」

「おう、恭平の為にもそうしてやれよ。たまにはマスカラでもつけてみれば?」

そういって旦那も出勤していった。
旦那を見送り、玄関のドアが閉まるのをじっと見つめた。
さっきまでは全然考えていなかったけれど、そうしようかしらね。
それにしてもマスカラなんていつ使ったのが最後かしら?固まって使えなそう。
そんなことを考えながら、今度は止まった洗濯機に向かって歩きだした。

専業主婦なんて気楽なものって言われるけれど、掃除に洗濯に食事作り。
どれも手を抜かずにするのは結構な労働力だと思う。
特に洗濯、めいいっぱい泥遊びをしてくる息子の洗濯は機械だけじゃ落ちきれなくて、洗濯板を引っ張り出して力も使ったり。マニュキュアなんかもってのほかだ。

一通り家のことを片付けて、ちょっとの休憩。
コーヒーを入れなおして一息つこうと腰を下ろしかけたが、さっき思い出したマスカラ。
コーヒーに口をつける前に化粧ポーチをのぞいてみた。

やっぱり、これはもう無理ね。
左右に振ってみても液体の音は全くせず、鈍い塊がかすかに動くていど。
そのまま手に持って不燃物のゴミ箱行きとなった。

旦那とは大学のサークルで一緒になった。
皆に見せる柔らかい笑顔が特に印象的で私は直ぐに目で追うようになった。
いろいろあったけれど一緒になった私達。
可愛い子供にも恵まれて平凡だけど、いい人生を送っていると思う。
だけど……
未だに結婚をせずにバリバリ働いている友人を見て羨ましくも思ってしまう私もいた。
未婚の友人は未だ恋を楽しんでいる、たまに聞く恋の駆け引きの話は私には刺激的で。
私だって、そんな恋をしたはずなのに、記憶はあやふやだ。
友人曰く、幸せボケだよ。
というけれど。

浮気をしたいという願望は全くないけれど。
旦那相手に安心感というか、家族愛を覚えてしまってからは男女の恋や愛というものは遠いものになってしまって。
結婚する前は旦那に対して100の想いも子供が増える度に減ってしまうのだろうか?
夫一人に子供2二人。
三等分の想いになってしまったのか?
いらない想像をしてしまう。

冷めかけたコーヒーをレンジで温め直してやっと一息。
時計を確認。
学校へは午後からだから、もう少しやれるかな。
重たくなった腰を浮かして家事を再開した。

私は結局恭平の言ったあの服を着て、久し振りにスカートまで履いて。
お化粧もいつもよりきちんとしてみたり。
普段、如何に手抜きをしているかが思い知らされた。
これじゃあ、旦那のこと言えないかも知れない。
そんなことを思いつつ、恭平のクラスの中に入った。
見知った顔に会釈をしながら教室の奥へ進む。
恭平は私を探してしたのだろう、椅子から転げ落ちそうな位後ろを振り返っていた。
私を見つけると嬉しそうに笑ってピースサイン。
結構、いやそれはかなり目立っていて。
家の中だけでなく、学校でもお調子者なのだということが今更ながらに伺えた。
ジェスチャーで前を向くようにと手を動かすと、鼻の穴を膨らませて変わった笑いを見せ前に向き直す恭平。
やれやれと軽く息を吐いて自分の手を落着けた。

程なくしてチャイムが鳴ると、担任の先生が入ってきた。
50代くらいのベテランの先生。
多少ざわついた教室はその先生が2回手を叩くと、それを合図に静まった。

流石だな。

去年の担任の先生は熱心だったけれど若いせいか、子供達は中々言うことを聞かなかったようで見ているこちらが申し訳なくなってしまうほどだった。
クラス替えもしているので生徒の面子は違うけれど、やっぱり先生には迫力があったほうがいいのかもしれないななんて。
結構都合の良いことを考えてしまった。
授業も恭平はバシバシ手を上げて、時には笑いをとりながら答えていたり。
正直恥ずかしいものもあったけれど、全身で学校が楽しいといっているようでほっとしていた。授業半ばで今度は晃平のクラスへ移動した。
晃平は恭平と違ってあまりどころか全く手を上げず。
ひっそり目立たないようにしているようだった。
同じ兄弟でもこうも違うものなのかと晃平の背中を見つめ続けた。

家に帰って休む暇もなしに夕飯の支度。
子供達をまず風呂に入れ、エプロンをかけた。
いつもだったら、直ぐに部屋着に着替えるところだが、久し振りしたきちんとしたメークや気合をいれた服を纏っていたくてそのままでいることにした。
慌しくすんだ食事の後、宿題をさせて、テレビを見させることなくお休みなさいとリビングから送りだした。

旦那の帰りを待つ間、私はパソコンをそっと開いた。
それはネットの小説を読む為。
本屋に行く面倒もないし、お金もかからず読み放題なこの環境。
私とって唯一の趣味だった。
それは忘れてしまったトキメキを追い求めるバーチャル的なものに違いなかった。
一度読み出すと時間を忘れて読みふけってしまう。
今日も例外なく堪能していると、チャイムが鳴った。
読みかけのページをチェックしてパソコンの電源を切った。

「お帰りなさい」
と玄関で旦那を出迎えた。
旦那は私を一目見ていつもと違う雰囲気を察してくれた。

「奇麗だよ」
って冗談を交わして、今日の戦闘服から脱出しに行った旦那。
この一言がもらえただけで、窮屈なメイクが途端に窮屈でなくなった気がした。

その晩は久し振りに……

寝る前に2度目のシャワーを浴びると
明日はネットを開かなくてもいいようなそんな気分になっていた。