迷いみち

23話
もう終わりにしよう。

旦那の背中を見据え心の中で何度も呟いたその言葉。
だけど、何が私をそうさせるのか、いざこちらを向いた旦那の前では口に出来ない私がいた。
何のために夫はこの家に帰ってくるのだろう。
夕飯を食べるでもない、会話もないこの家に。

その日はどうした事か、いつもより随分と早く帰ってきた夫。
次の日から急な出張だとかで、3日間家を空けるとの事、早めの帰宅は準備をする為なのね。
出張ね――。
何を今更。心の中ではそう思いつつも、私は妻を演じる。
下着を靴下を甲斐甲斐しく旦那の鞄に詰めていく。


翌朝、珍しく4人で朝食をとった。本当に珍しく。
「気をつけて行って来て下さいね」
私はにっこりと笑って、鞄を手渡し夫を送り出した。
もう、どうでも良かったのかもしれない。
嫉妬をする時期なんてとうに過ぎてしまったのだから。
それとも――。

「じゃあ、俺も行ってくるから」
最後に残った恭平も送り出して、一人になった部屋。
子供達も、もう父を恋しい時期も過ぎただろう。
今年の年末は実家かな。半年以上先だけど。
誰もいなくなった部屋をぐるりと見渡して、もうこの部屋との別れも近づいてきているのかもしれないと一人呟いた。

ある日の事だった。
「母さん、俺の塾の合宿覚えてる?」
何気なく、テレビを見ていた時に恭平に話を振られた。

壁に掛けてあるカレンダーに目をやると、確かに「恭平合宿」と書いてある。
そして目を疑ったのはその下だった。
「晃平部活合宿」晃平の角ばった字でそう書かれていた。

そう言えばそんな事言っていたような。
「しっかりしてくれよ、母さん。最近ぼーっとしてるから。集金明後日までだから、宜しく」
「俺もね」

「了解、明日用意しておくから」
さ来週。
土日を挟んだその日程。
きっと夫もいないだろう。
カレンダーに気がつけば尚の事、子供達がいないのだったらこの家に帰ってくる意味はないのだから。

そんな時だった、アラケンから電話があったのは。あの先生の葬儀から、再び私達は友人として極たまにだけど連絡を取るようになった。そうただの友人として。

「来月の頭ね、偶然子供達揃っていないんだよ。こんな事初めて」
思わず、言ってしまった言葉にアラケンが反応した。

「どうせ、一人じゃつまらないだろ。夏休みで俺も暇だし、ドライブでも行くか?」
全身がかっと熱くなった。電話で良かった、どうせアラケンの冗談だろうその言葉をほんのちょっとでも真に受けてしまった自分が恥ずかしい。

「うーん、でも旦那いるかもしれないしね」
それは私の逃げだった。だけどアラケンが口にした言葉は思いもしない言葉。

「嘘、そんな事思っていない癖に」

「嘘って」
それは蚊の鳴くような小さな私の声。

「ごめん、俺どうかしてる。悪い――純」

卑怯だ。そこで私の名前を呼ぶなんて。もうどうにでもなれって思った。

「いいよ、行こう」
意を決したというのに、アラケンは

「いいって、お前」
どうしてそこで言い淀むかな?
女は度胸って言うけれど、ほんとそうかもしれない。

「行こうよ、ドライブ」
それは、勢いみたいな、やけくそみたいな。
毎週末家をあける夫に対しての復讐心もあったのだと思う。
アラケンに冗談だよ、と言われたらそれまで。それならそれで良かったのかもしれない。
ただの同居人と化しているがまだ結婚をしているのだから。
いけない母親だ、子供の事なんてすっ飛んでいた。

「撤回は無しだぞ」
そう言うアラケンは何処か、強張った声をしていた。

「まさか、アラケンこそやっぱり止めようだなんて言わないでね」
冗談めいた返したけれど、本当は胸が爆発しそうだった。

「言うかよ」
そこで会話が途切れた。

私が夫をふっきった瞬間でもあった。

女って怖いと思う。
アラケンとそんな約束を交わしたというのに、旦那の前で平気な顔を出来るのだから。
子供達の前では、決して素振りを見せなかったつもりなのに、やっぱりうちの子は敏感なのかもしれない。

「母さん最近機嫌が良いね」
と言われてしまった。

そして、その日がやってきた。
子供達は二人とも出掛けた。
夫は、思った通りの出張だ。何処に行くのだか。

そして、私も……。