迷いみち
24話
まるで、ドラマか小説のようだと思った。
近所の誰かに見られでもしたら――。
今まではいい、ちゃんと理由があったのだから。
郷里の先生の葬儀。聞かれたらちゃんと理由が言える。
だけど、今日は違う。違うのだから。
誰かに見られてはいけないのはアラケンも同じ。
アラケンはそんなに気にしなくてもと言ったのだが、私は慎重にならざるおえない。
私だけなら兎も角、アラケンにだけは迷惑を掛けたくなかったから。
普段は絶対使わないだろう、私鉄の数十分も乗った先の駅で待ち合わせをした。
一度も降りた事のなかった駅で私は静かにその時を待った。
待ち合わせ時間より大分早いというのに、私の前につけられた車。
久し振りに履いたパンプスの先に見えたのは忘れようもないアラケンの車だった。
スローモーションのように助手席の窓が降りて
「よっ、お待たせ」
と悪戯な笑みを見せるアラケン。
そっとドアノブを引いた。
「どうも」
私は足を踏み入れた。
バタリとドアを閉めた瞬間にゆっくりと動き出す車。
心臓がこれでもかってほど、バクバクしていた。
「早かったね」
なんて、それは私のドキドキを悟られないように放った言葉だったのに。
「それはお前と同じ理由なんじゃねぇの?」
そう言って、私を覗きこんだアラケン。
まるで十代の子供になったような恥ずかしさがこみ上げてくる。
そう初めて知った恋のように。
私は、窓を少し開けてそっぽを向いた。赤くなった顔を見られたく無かったっから。
落ち着け落ち着け。
そうは思うけれど熱を帯びた頬は細く開けた窓からの冷たい風を浴びても中々冷めてくれなくて。
――そういえばさぁ――
なんて、地元の同級生の話をし始めたアラケンの声に耳を傾けながらも、流れゆく街並みを見つめながら意識を遠くに飛ばす事ばかりを考えていた。
今からこんなので大丈夫なのだろうか?
子供を2人の産んでおいて、今更純情ぶっても仕方ないじゃないの。
頭の中で、そんな事ばかり考えていた。
「純?――っていうか、純って呼んでもいいよな」
突然呼ばれた名前に跳ねる鼓動。
「今更でしょ、何を言ってるのだか」
強がり? そんなぶっきらぼうな言葉しか出てこない私に余裕のアラケン。
始まったばかりだというのに、ぎくしゃくなんかしたくない。楽しい時間を過ごすんでしょ?
自分の中にまだ残る罪悪感と戦いながらもそう思う私がいた。
ラジオから流れる曲が止まった時アラケンが小さな声で呟いた。
「旦那、大丈夫だったのか?」
大丈夫って何が? 一瞬そんな言葉が出てきそうになった。
噛みついてどうするのよ。
「うん、思った通り急な出張が入ったそうよ。一年のうちに何度出張に行くっていうのよね」
おどけて言ったつもりだった。顔こそ向けられなかったけれど本当にどうでも良くなっていたから。
「そっか、じゃあいいんだな」
その一言が嬉しいけれど怖かった。一歩踏み出してしまう事に後悔はしないけれど不安はあるのだ。
そしてまた呪文のように自分に言い聞かせる。
――私だって、私だって――
アラケンからは確信めいた言葉は聞いていない。
遠まわしなそれは何度となく言ってくれたけれど。
私だって自分を知っている、アラケンにとってはただの遊び相手だという事も解っているつもり。何もこんなおばさんで既婚者な私に本気になるはずがないって。
それでもいいのだ、この数年間アラケンの存在が私の救いだったのだから。
ささくれた私の心を癒してくれたのはアラケンなのだから。
「楽しみだな」
流れゆく窓の外の風景を目に焼き付けた。帰りの風景は今と全く違って見える事だろう。
私の心と同じように。
高速に乗り県境を超えた、深い山の中に目的地はあった。
ひっそりと佇む温泉宿。
外観からみてもその古さを伺える。宿の前につけられた車のなんと不相応な事。
「隠れ家っぽいだろ?」
日帰り入浴が出来る温泉宿。値段は張るようだが空いてさえいれば時間まで個室が使えるという結構人気の宿らしい。
「ほんとだね、隠れ家みたい」
そう言って宿へと向かった私達の手は自然と一つになっていた。
絡んだ指がこそばゆい。あわせて感じる胸の高鳴りと共に徐々に罪悪感が薄れていくのを感じていた。
丁寧なお辞儀で迎えられた玄関でそっと手をほどいた。
アラケンの手が離れていくと、途端に熱が引けてきた。
あいた手は自然と左手へ。
朝外してきた指輪。指輪こそ嵌っていないが長年つけていたその指にはくっきりと痕が残っていて。
まるで指輪をしているかのように少し窪んだその場所を何度もさする私がいた。
「こちらでございます」
どうやら部屋が空いていたらしい。
細い廊下を案内された。踏み出す度にギシギシとしなる廊下は綺麗な飴色で、暖かい温もりを感じさせてくれる。天井から吊るされているのは時代を感じさせるランプで周りを見渡しても電気を使うものは一切見当たらない。自分達が生まれ育った環境でもこんなところは無かったというのに何処か懐かしさを覚えるのは何故なのだろう。ふいに振り向いたアラケンに
「いい雰囲気だろ」
と言われ、大きく頷いた。声が出なかったのはアラケンの顔に見とれてしまったから。
薄暗い廊下で柔らかいランプの灯りに照らされたアラケンの顔がとてもいい顔をしていたから。