迷いみち

25話
通された部屋は落ち着いた宿の雰囲気そのままの和室だった。
簡単に部屋の作りと非難経路を説明をして、おかみはそっと襖をしめた。

2人きりになった瞬間。
私は、気持ちを落ち着かせようとしているせいか自然と窓際に足を進めていた。
アラケンに気がつかれないようにと小さく息を吐く。
無理やり視線を投げる。
正面の窓からは辺りを一望できる見事な眺めが広がっていた。
視界の端に見えてしまったのは、少しだけテラスのようになったそこにある小さな露天風呂。
なるべく目に写さないように遠くを眺めた。
私達の住む街は見える山の向こう側だ。
何も言葉を発する事が出来なかった。さっきみたいにおどけて笑うのよ。そう思うけれど、いざとなったら言葉が何一つでないのだ。

見事な景色だというのに、段々と私の視界には何も写らなくなってきて。
自分の鼓動の音だけをただ感じていた。
そんな私の耳に少しづつ近づいてくる足音。
それは紛れもなくアラケンの足音で。
私の背後でぴったりと止まった足音、押し寄せてくる緊張で一つ大きく息を吸った時だった。

ドライブに行こうと誘われた。
そして、折角だからと行き先を温泉にしないかと言われた時は正直戸惑った。
ドライブ、温泉。
もう何も知らない十代ではない。
もしかしたら。そう考えるのはおかしな事ではないだろう。
だけど――。
いざとなったら、やっぱり躊躇してしまうのだ。
もし、この先アラケンとの未来があるとするならば今はその時ではない。
頭の中では解っているんだ。
だけど、これがアラケンにとって遊びだったら?
都合の良い相手。本気でなければそれはそれでいいのではないか、割り切って付き合えば……。
だけど、そんな位置に自分を蔑んでもいいのだろうか?
それより何より子供達は? 


後ろから私の両肩にそっと添えられた手。私の身体は強張って自然と手のひらを握っていた。
アラケンの頭が私の髪にそっと触れると同時に、肩に置かれた手がゆっくりと前に下りてきて私の胸の前で交差した。きっと私の胸の鼓動は伝わっているはずだ。

「純――」
耳元で囁かれたアラケンの声は普段とは全く違う優しい、それでいてちょっと切ない響き。

もう、考えるのは止めた。
夫もしている事。
子供達の事を考えると両親揃ってなんて酷い親なんだと思う。
ごめんねだなんて済まされるもんじゃないと解っている。


もっと、強く抱きしめて。あの海で叶わなかった思いが蘇る。
だけど、やっぱり今ならまだ引き返せる。
この後に及んで、否ここまできてしまったというのに引き返さなくてもいいの? 
そう思う私がせめぎ合っていた。

ぴくりとも動かず、何も発しない私にアラケンもきっと戸惑っているのだろう。
交差された手は動く事なく、2人の沈黙が続く。

隙間無く寄り添っているけれど、抱きしめる腕に力を入れる訳でも離れるでもなく。
一歩踏み出す事が出来ないのは私? それともアラケン?

私は――踏み出す勇気が無かったんだ。
目の前にある腕にしがみつく事も、アラケンの名前を呼ぶ事も。

ゆっくりと背中に隙間が出来、交差された手は静かに引かれていった。
最後に私の髪で手が止まり、後頭部に優しく口づけをされたのが解った。

「まだ時間はあるから」
アラケンはそう言って私から一旦離れていった。
離れたと言っても同じ部屋にいる事には変わりが無い。
まだ窓の外を見続ける私に

「お茶でも飲むか? それとも散歩でもする?」
おどけた声で問いかけられた。

未だに緊張して固まり続ける私の身体。呪文のように、落ち着けと繰り返し、出来る限りの笑顔を張り付けて私は答えた。

「うん、散歩しようよ」と。

フッと笑ったアラケンはちょっとバツが悪そうな顔をしながらも
「やっぱ散歩だよな」
と。

何の音もしない静まり返った廊下。
少しだけ先を歩くアラケンの背中を見て、自分の優柔不断さを痛感した。
宿の外に出ると私はそっとアラケンの隣に寄り添った。
そして、いつもよりもほんの少しだけ軽くなった左手でアラケンの指先を掴んだ。
驚いたのか斜め上から覗きこまれて、じっと瞳が重なった。
何も発してはいないのにまるで

いいんだよな

そう言っているような気がして、私は何も言わずぎゅっと指を握り直した。

宛てのない散歩道。それは行ったり来たりする私の心と同じだ。

何処へ進んでいくかも分からない散歩道。
それは迷いみちと言った方が相応しいのかもしれない。

紅葉にはまだ早い、青葉茂る山の小道。
小鳥のさえずりと風の音しか聞こえないその空間はまさに異空間。
ここは現実ではないのではとさえ思ってしまいそうになる。
それは自分への言い訳。
これから踏み出すだろう私の言い訳だった。