迷いみち

26話
「静かだな」

「そうだね」

そんな会話を繰り返し、ゆっくりと足を進める。
会話らしい会話もなくて。
でも、繋がれた手は一瞬たりとも離れる事はなく。
必要とされている、そんな勝手な解釈をしてしまいそう。
違う、そう思いたいのだ。女のとして私の存在を感じていたいのだと思う。
もうとっくに忘れてしまったときめきを今感じているのは確かなのだから。

だいぶ進んだ山の小道は薄暗く、湿った空気で包まれている。
夏と言えどここは避暑地。時折頬を撫でる風が冷たくて、私は小さなくしゃみを一つした。

「そろそろ戻るか?」
そう言って、立ち止まったアラケンの顔を私は、一つの決心をして見上げた。
「戻ろうか」
歩きながら考え続けた私が出した結論。
せめぎ合う良心の呵責と猜疑心。

それは決してなげやりな気持ちではなかったはず。
本当だったら、ちゃんと夫と決別してからだという事は解り過ぎるほど解っている。
勢いで来てしまったのは確かだったが、今は違う。
ここに来たのは私の意志で、そう望んでいたのは私の方だったのだから。

下る山道は、きっとこれからも続くであろう私の懺悔への道の始まりなのかもしれないと思った。

宿に戻ると入口に置かれた小さな雑誌の切り抜きが目に入った。
それは、手打ちの蕎麦屋の記事。
2人で足を止めその記事を見ていると、宿の人が声を掛けてくれた。

「そこの蕎麦はとても美味しいと地元でも評判なんです。まだこの時間だったら食べられるかもしれません。この記事にのったせいか、こんな山奥なのにお客さんが結構来まして、ちょっと出遅れると完売になってしまうんですよ。こちらの時間は大丈夫ですから良かったら行ってみてはどうですか?」

アラケンと顔を見合わせる。
「じゃあ折角だから、行ってみる?」
本心では無かったと思う。心の何処かで断って欲しいと願うずるい私もいた。
折角の決心が鈍る前に、アラケンの胸に飛び込みたいと願う母親という立場を捨てた女の本心。

「じゃあ行ってみるか」
アラケンの言葉に自分でそう誘った癖はずの私はひきつっただろう笑みを返した。
蕎麦屋までは車で20分。山を降りたところにあるという。
私達は鞄を取りに部屋に戻った。

部屋に入るなりアラケンは。

「お預けくらったな」
軽い口調で笑っていた。

「な、何」
ストレート過ぎるアラケンの言葉に思わず声が詰まった。

「勿論、温泉だよ」
とまた笑う。お調子者のアラケン。あの頃のままだと思った。

「そうね、温泉ね」
早とちりした自分が恥ずかしい。

私は手早く財布の入ったカバンを手に取ると、アラケンの横を通り抜けた。
その時、小さな声が私に届いた。

「そんな訳ないだろ」
と言う小さな呟きが。だったら何で蕎麦を食べになんて行くのだか。
一瞬足が止まったが

「でも俺蕎麦好きなんだよね」
の言葉に、私は止まった足をまた踏みだした。
まだ時間はあるのだから。
太陽はまだ真上にある。
半日分の部屋を借りている。
ほんとうは不安があるのだ。
アラケンが私の身体に満足しなかったら?
年も年だ、それはあり得ない事じゃない。
時間は短い方がよいって場合もあるから。
何とも虚しい発想だけど、これも現実だから。
私はショートブーツに足を滑らせた。


アラケンの車に乗って、山道を下る。
2人で、そば談議をしながらの道筋はそれはそれで楽しい時間で。


だけど、この私達の選択が、人生の別れ道になったとは思いもしない私だった。