迷いみち

27話
私達が来た道と反対方向に山を下った。
まだ山を降り切る手前。
ひっそりとした山道に、その蕎麦屋はあった。
宿の雰囲気に何となく似ている優しい造り。
看板も無く、何も書いていない紺色の暖簾がかかっているだけ。
ともすれば通り過ぎてしまいそうな蕎麦屋だけど、店の前に人が列をなしているので通り過ごす事なく無事に到着した。

「結構いるもんだね」
そう言って列の最後に2人で並んだ。
人前でこうやって堂々と並んで良いものなのか考えもしたけれど、それも今更だ。
少しだけ触れた手の甲を合図に、どちらともなく指が一本づつ絡まっていった。
何も知らなかった少女の時のようなトキメキがまだ自分の中に残っていた事に驚かされる。
アラケンと会わなかったら、こんな思いをすることはこの先、一生無かったと断言出来る。
ちょっと顔をあげるとアラケンの横顔。
知らぬ間に笑顔になる自分。私はアラケンに恋をしているんだと改めて思った。

一人二人と暖簾の中に消えていく。
時折通る車が通り過ぎると、いろいろな音が聞こえてくる。
風によってざわめく木の葉だったり、野鳥の声だったり。
店の裏側には川も流れているようで、微かだけど水のせせらぎも聞こえる。

「いいところだね」
「いいところだな」

並んで待つ時間も少しも嫌な事はなく。
さっき宿で思った私の女の本心も和らげてくれるような気がした。
ここに来て正解だったかも。
あのまま宿で、2人きりになるよりもこうしてリラックスして、お蕎麦を食べてからの方が良かったのかもしれないとそう思い始めていた。

それから、20分くらい待って私達が店に通された。
丁度一番奥の席が空いた。窓の外を見下ろせる特等席だった。
開いた窓から、心地よい風が入ってくる。
天婦羅の香りも食欲を誘った。

メニューは蕎麦と天婦羅だけ。
至ってシンプルなメニューだ。
店主が、朝早くに採ってくるという野草を天婦羅にしているとの事。
程なくしてテーブルに並べられた蕎麦と天婦羅。
早速、口にした。
打ち立ての蕎麦に、新鮮な野草を使った天婦羅はこれまで食べた中でも一番に入るんじゃないだろう味がした。
アラケンとは何の会話もしないまま、箸を進める。だけど、たまに目が合って2人で笑いあう。
そんな繰り返し。楽しい時間そのものだった。

私の蕎麦が後一口というところだった。
私の身体に、規則的な振動が伝わってきた。
それはバイブレーターにした私の携帯。
洩れる音は本当に微かに聞こえる程度。きっとアラケンには聞こえないはず。
そう思って私は一回やりすごす事に決めた。
一瞬止まった手を再び動かすと、その振動は収まった。

だけど、再び動き出す携帯。
もし子供達に何かがあったら?
自分の今の状況を構っている場合ではない。
どきりと胸打つ鼓動。そして一気に身体の温度が下がるまるで凍ってしまいそうなくらい。
嫌な考えが頭を過る。
私は、視線を下に向け鞄に手を伸ばした。
携帯を探り当て、震え始めた手で携帯を開くと着信履歴には子供達の名前は無く全く考えもしなかった……旦那の名前があった。旦那の名前を見て、全身に血が通うよう、やっと生きた心地がした。
旦那なんてどうにでもなれだ。
私は完全に無視することを決めた。
アラケンはそんな私の顔を黙ってじっと見つめていた。

大丈夫、旦那が今日の事を知る訳がない。
万に一つばれたとしても何も臆する事はないんだから。

私は大丈夫と笑みを返し、最後の蕎麦を吸い込んだ。
自分が今している事を棚に上げて、楽しい時間に水をさされたよな嫌な気分になった。
ますます旦那が嫌いになりそうだった。

会計を済ませ、車に乗り込むまで数度携帯が震えた。
電源を切ってしまえば良かったのかもしれない。そうしなかったのは何故なんだろう。
先程とは違う微妙な空気が車内を漂ってるようだった。
アラケンは黙ったまま。そして私も黙ったまま。
ゆっくりと車が走りだした。
少しだけ開けた道から徐々に狭まっていく道幅。最初のカーブを曲がると再び携帯が震えだした。
車のスピードが落ち、登坂車線でゆっくりと車が止まった。

「出なくていいのか」
ハンドルに身を預けアラケンはそう呟いた。

「うん、いいに決まってる」
アラケンの横顔を見ながらはっきりとした口調でそう告げた。
あんな奴に今の私を邪魔する権利は無いのだから。

アラケンは、私の言葉を聞いてもまだ同じ格好で前を見据えている。
――行こうよ――
そう言おうと思った私に

「この先は携帯圏外だ。ここがきっと電波の繋がる限界だろう。宿に行くのは電話に出て用件を聞いてからでも遅くはないんじゃないか」
言ってる意味が解らない。だって私はいいって言ってるのに。
そんな私の気持ちなんてちっとも解らないふりをして。
アラケンは身を起こし、反対にシートを倒して目を瞑り始めた。

泣きたくなりそうになるのを堪えて、鞄の中から携帯を取り出した。
折り返し掛けるなんて、そんな事はしたくない。

「じゃあ、後5分だけ待ってみる。電話が掛ってきたら出る。だけど掛ってこなかったら――行こうね」
私の言葉を聞いて、アラケンは返事をする代わりにこくりと頷いた。

掛ってこなければいい。
そう願ってみたものの。願いに反して、1分と経たずに携帯が震えた。
静まりかえった車内で、その鈍い音は異様な程響いていた。

「俺、出ててるよ」
そう言って身を起こしたアラケンを手で制した。
小さな声で待っててと呟きながら。

「はい」
親指でボタンを押すとそれだけ告げた。
すると、間髪入れずに聞こえたのは旦那の声ではなくて、取り乱したような女の声だった。

「奥さん、良かった繋がって――」
安堵の混じった涙声。

「はい」
もう一度短く返事をした。

「ご主人が倒れられて、今救急車で病院に運ばれました。私は今付き添いで来ているのですが、容態はまだ知らされてなくて。場所は――」
まるで、人ごとのような気がした。
あの人が倒れた? 救急車?

そんな私の呟きが聞こえたようで、アラケンはシートから身を起こし私の顔を覗きこんだ。

「奥さん!」
何も発しない私にそう問いかけるその女性。


奥さんって……。
携帯を握る手がガタガタと震えた。