迷いみち

28話
「大丈夫か?」

ハンドルを握るアラケンの声。
動揺しているのは、何になんだろう。

すっかり山の風景が消え去った高速。
倒れた夫の元へアラケンと向かうなんて。
もうとっくに愛想なんてつきていたはず、この後に及んで何でこんな気持ちになるのだろうか。
私はこんなにもずるい女なのだ。それをはっきりと自覚する。

――案外近くにいたんだな――
そんな呟きが聞こえてきた。

夫と一緒にいた女性が教えてくれた病院は、山を2つ越えた海の幸で有名なとある海岸付近にあった。
私が山で夫が海。

今回に限って本当に夫は仕事だったのだろうか?
上司だと名乗った女性。
私の記憶にあるあの人だろう。
そう思った途端に急に罪悪感がじわりと沸いてきた。

「あと少しで着く。あまり早く着くのも都合が悪いがどうする? このままいくか? それとも何処かで」
そこで言葉を区切ったアラケン。

「それもそうね。じゃあ何処かに寄ってもらおうかな」

冷静を装うのは誰の為?
自分の言葉に呆れてしまう。

高速を降りて、いくつかの看板を目にした時先程告げられた町の名前が目に入る。
夫の事なんてなんとも思っていなかったはずなのに、段々と沸いてくるこの不安は一体何処からくるものなのか。
私は何が不安なの?
楽しいはずのドライブだったのに、今の私達はそんな雰囲気なんか微塵もなくて。

「ごめんね」
何度目か分からない謝りの言葉を口にする私。

「ごめんじゃねえよ。何度も言わすな」
アラケンの言葉に、胸の中でもう一度”ごめん”と呟いた。

アラケンがゆっくりとハンドルを切った先はアンティークな外観の喫茶店だった。
駐車場に車を止めエンジンを切ると、私の中で何かが砕けた。
2人無言で車を降りて、店に入ると途端に広がる香ばしい香り。
いつもの私ならきっと店中を見渡してはしゃいでいるだろう。
だけど、ざわめく胸の内を落ち着かせる事が精一杯で、通された窓側の席に腰を下ろすまでアラケンの後姿でさえ目に入っていなかったと思う。

目の前に差し出されたメニューで我に返った。
「俺はブレンド。――どうする」
目を細め、穏やかな笑顔を見せるアラケンの顔を直視出来なかった。
ざわめく胸はまだ落ち着かない。

メニューの文字も浮ついて、コーヒー一つ頼む事も出来ない私。

「ブレンドとカフェオレ。――それでいいよな」
こくりと首を折る私を見て店員がお辞儀をした。

項垂れる私にアラケンの優しい声が降ってきた。

「そんな顔するなって。まだ容態も解らないんだろ? 何かあればまた携帯に掛ってくるんだろ? こんな時不謹慎なのは承知だけど、今、お前と一緒にいるのは俺だよ。楽しい時間を過ごすんだろ?」

ゆっくり顔を上げると、子供の時のアラケンの顔が見えた気がした。
お調子者で、やんちゃなアラケン。
遠い昔の出来事が頭の中を駆け巡った。

「新井健一です。良く母さんから”あら? 健一は”って言われているので友達はそれを縮めて”アラケン”と呼ばれています。結構気に入っているのでそう呼んでくれたら嬉しいです」

クラス替えをして、初めてアラケンを知った日だった。
きっとクラスの誰もが新井君だなんて呼んだ人はいないんじゃなかったと思う。
誰よりも早くに名前を覚えられ、誰よりも本当の名前を呼ばれなかった奴。
それがアラケンだ。教室の中でも校庭でもアラケンの姿は良く目についた。
好きと言う感情こそなかったけど、気になる存在だった事は確かだった。

あと30分。
それまでは、いいよね。楽しんでもいいよね。
自分で自分に言い聞かせた。醜い私の心うち。

私達はお互い異常なテンションだったと思う。
昔話に花が咲いた。まさにそんな状態。
話す事は小学校の時の話ばっかりで、先日亡くなってしまった先生の話も沢山した。
いかに先生にばれずに悪戯をするか。とかそんないろいろな話。
いっぱい笑った。大げさすぎるくらい笑った。
ブレンドコーヒーもカフェオレも温かさを通り過ごしてやたらとぬるくなってしまった。

どちらともなく、会話が止んだ時
「そろそろ行くか」
そういって伝票に手を伸ばしたアラケン。
勿論私はそれを止める事なんて出来るはずもなく。
行かなくてはいけないのは他でもないこの私なのだから。

テーブルの上に置かれた携帯は一度も震えなかった。
私はポケットに携帯をねじ込んでアラケンの後を追った。

さっきとは明らかに違う距離。
隣ではなく一歩後ろ。

一本一本の指が悲鳴を上げている。
一度知ってしまった温もりを求めて。

だけどそれは――。
この車に乗ったら、私は妻にならなければならない。
そうじゃない。私は妻なのだ。

「奥さん」
電話から聞こえたその響きは紛れもない私の事なのだから。
私は知らぬ間に左手さすっていた。
刻み込まれた指輪の痕を、まるで消えてくれと願うように何度も何度もさする私がいた。
いつの間にか立ち止った私に気がついたアラケンが振り返った。
アラケンの視線は私の指に注がれているようだった。
アラケンの顔がふっと緩む。
「ほら行くぞ」
きっとアラケンは勘違いをしているのだろう。
私が今誰を想って指をさすっているのかを。

助手席のドアを閉めると2人無言のまま、目的地へと走り出した。