迷いみち

29話
アラケンがゆっくりとブレーキを踏んだ。

未だ強い日差しがロータリーの中央にある噴水のしぶきをあっという間にアスファルトに沁み込ませていく。数羽のハトが水浴びをしている様はとても平穏で、私の心とは大違いだ。
アラケンはシフトレバーに手を置いたまま、真直ぐ前を見据えていた。
私は、車を降りる事もせずにただシートに腰を落としたまま。
もう、行かなくては。
そうは思うが、足が動かないのだ。
夫の元へイソガナクテハと思う気持ちとモウスコシだけと思う両極端な想い。
視線の先には列をなしたタクシーが乗客待ちをしている。
あれに乗らなくてはいけないのは十分すぎるほど解っている。
車の窓に映った私の顔。
今にも泣きそうだ。
永遠の別れなんかじゃないはずなのに、もしかしたらという考えも頭を過る。
化粧もなおしていない、口紅もはげかけている。
こんな顔で今日と言う日を終わりになんかしたくなかったのに。
それでも、私は行かなくてはいけないのだ。
目を瞑り、深く息を吸い込んだ。
細く長く出来る限りゆっくりと息を吐いた。

「どうもありがとう。行ってくるね」
出来る限りの笑顔を張り付けドアに手をかけた。

「……何かあったらいつでも電話しろよ」
優しい言葉に我慢していた涙が溢れそうになる。
振り返る事も出来ずに”うん”と返し後ろ手でドアを閉めた。

早く行って。背を向けても感じたアラケンの視線。
一向に聞こえない車の発進音。
タクシーの座席に座ると膝にぽたりと涙が零れた。
一つ二つとスカートにシミを作る。
小さな雫がじわりと布地にしみこんで広がっていく。
ぽたりぽたりと零れるそれは、幾重にも繋がってシミを広げる。
このアスファルトのように直ぐに消えて無くなればいいのに。
訝しそうに私を見ている運転手に行く先を告げ、ゆっくりとタクシーが発進した。
バックミラーに映ったアラケンの車。
鞄に手を突っ込んでハンカチを探りあてる為にまるで子供のように鞄をかき回す。
アラケンの車とは比べられない程の固いシート。
同じ車でもこんなに違うものなのだろうか。
さっきのアラケンの言葉が、優しい笑顔が頭からこびりついて離れない。
我慢しようにも溢れ出る涙は止める事なんて出来なかった。
せめて病院に着くまでにはこの涙を止めなくては。
ハンカチを目に強く押し当てて、喉の奥から洩れそうになる嗚咽を必死で耐えた。

病院まではメーターが一回だけ上がったような距離だった。
お札一枚でことたりる距離。
私はハンカチを目に押し当てたまま、おつりを手にタクシーを降りた。