迷いみち
30話
ハンカチを手に握りしめたまま、受付に向かった。
院内に一歩足を踏み入れると、夫の事を考える私が身体の何処からか沸いてくるようだった。
さっきまではあれだけアラケンとの別れを惜しんでいたというのに。
何て自分勝手なのだろう。
だけど……
夫の容態を心配する私も確かに、それもしっかりいるのだ。
「今日救急車で運ばれた梅沢ですが」
きっと受付の人は目を腫らした私が心配していると思った事だろう。
後から並ぶ人にその場を譲り少し端で待っていた私に近寄った受付の女性。
「大丈夫ですよ、今処置が終わって病室に戻ったところです。この先のエレベーターで3階に行って下さい。目の前にナースステーションがありますからそちらで――」
頭の中で反芻する。
3階、ナースステーション。
ハンカチを握りしめなおし、言葉を発せずお辞儀をして私はひんやりとした廊下を歩いた。
処置が終わった。処置? 未だどんな状態かは解らない。
アラケンの事を支配していた頭の中に空いたそのスペース。
いろいろな感情が入り混じって歩いている事が不思議なくらい。
最近は見た事もないような狭くて圧迫感のある年代物のエレベーターだった。
動く度に何処からか聞こえてくる機械的な音と不規則な揺れに懐かしい記憶が蘇った。
夫と付き合い始めた頃にサークルのメンバーで行った雑居ビルの3階にある居酒屋。
こっそり抜け出た私達。付き合って初めて交わしたキスはこんな感じのエレベーターだったなと。
何でこんな時にそんな事を思い出せるのだろう。自分が信じられなかった。
チンという音と共に視界が広がった。そして、病院特有の匂いが鼻をつく。
受付の人が言っていたように目の前にはナースステーションがあった。
先程と同じように名前を告げる。
小さな声になったのは先程の回顧の動揺からだと思う。
「梅沢さんですね。1301室です。今は落ち着きまして眠っておられます。ご身内の方ですか?」
身内。そう名前だけのね。
「はい、梅沢は夫です」
目の前の看護士の顔を見逃さなかった。間髪入れずに後ろでカルテを書いていた年配の女性が顔をあげ私の前にやってきた。
「ご心配だったでしょう。少ししたら先生から今の病状の説明があります。こちらへどうぞ」
軽く手を添え行く先を示し、歩きながら看護士は入院の手続きや治療方針を兼ねた転院の手続きなどの説明がある事を教えてくれた。
ナースステーションの隣にその部屋はあった。
すでにネームプレートが張られている。
見慣れた名前がそこにあった。
「では、何かありましたら言って下さいね。また先生のくる時間が解りましたらご連絡に伺います」
丁寧にお辞儀をして、部屋の前で踵を返した看護士を見やり、エレベーター同様古めかしい病室のドアを引いた。
狭い部屋の真ん中に夫は寝ていた。
点滴のチューブやら酸素やら管を纏わりつかせた夫がそこにいた。
顔色が悪い。血の気の引いたような夫の顔。
繋がれた機械には規則正しく鼓動がある事を示している。
大丈夫よね。少しずれた布団を掛け直した。
こんなにしっかりと夫の顔を見たのはいつ以来だろうか。
丸椅子を探りよせ、どっかりと腰を落とした。
手にしたハンカチに気がつく。
きっと化粧も剥がれおち酷い顔をしているに違いない事を悟る。
規則的に胸が上下する様をみて、私は立ち上がった。
先生が来る前に少しだけなおしてこようと。
廊下の中ほどにトイレがあった。
昔の病院。タイル張りの冷たい空気に、この匂い。
数日いるとこの匂いにも慣れてしまうのだろう。
手洗い場の隅に背中を丸める女性がいた。
洗面台に手を掛け、その横顔は憔悴しきっているようにもみえる。
病院には似合わない明るい柄のワンピースを着ていた。
赤を基調にしたワンピースなので、見落とすところだったが、すれ違い様にみた彼女のワンピースには多量の赤い滲みつまり血痕が付いていた。
声を掛けるわけでもなく、私は水道の蛇口を捻り鏡を見つめた。
目が赤くなっている。
涙の痕もくっきりついている。
私も彼女と同じ顔をしているのだろう。
きっと理由は違うけど。
ハンカチを湿らせ目にあてた。気休めにしかならないだろうけれどきっと少しはマシなはず。
脳裏にふと浮かんだのは、ベットで横たわっていた夫の顔だった。
さっきのエレベーターで思い出したからかもしれない。
それとも痛々しい姿をみたからなのか?
「あの……」
遠慮がちに話しかけられた。ハンカチをのけるとそこには先程の女性。
「奥さまですよね。梅沢さんの――。私同じ職場の唐沢です」
深々とお辞儀をしたまま暫く顔を上げなかった。
私も深くお辞儀をした。
女の直感。直感なんて大げさだ。こんな場合だったら誰でも分かるだろう。
一瞬にしていろいろな事が頭を駆け巡る。
この人が夫の相手なのだ。
仕事のはずがない。
こんなワンピース、仕事になんか来ていかない。
一目で高級品と分かる品の良いワンピース。
私は真直ぐに彼女が見れなかった。
私だって同じなのだから。
私だってアラケンとさっきまでいたのだから。
でもズルイ自分もいる。
この人がいなければ――
きっと私はアラケンに惹かれなかった。
この人さえいなければ――
夫は私達に対して誠実であったに違いないと。
自分勝手すぎる思いが駆け巡った。
「後でいいので少しお時間いいですか?」
そう切り出したのは唐沢さんの方だった。
待合室にいるという言葉を残し、私はトイレに一人残された。
返事は出来なかった。あまりにも唐突すぎて。
呆然と立ち尽くした私に先程ナースステーションで見た看護師が声を掛ける。
「奥さん、先生のお話があります。こちらにどうぞ」
ここでも私は奥さんなのだ。
当たり前だけど、当たり前なのだけど……。