迷いみち

31話
通された部屋は日当たりの悪い閉そく感漂う暗い部屋だった。
主に医師との面談に使われるであろうその部屋。
深刻な病状を告げられる人にはあまりにも酷なのではないかという気がした。
目の前のホワイトボードには幾枚ものレントゲン写真。
夫のものだ。

部屋に入り立ちつくしたままの私に、温厚そうに見える医師が椅子を勧めてくれた。

「驚いた事でしょう」
そう静かに話し始めた医師の言葉を少し遠くに感じた。
小暮というその医師は、こんな風に病状を話す事は慣れているのだろう。
私の顔をしっかりと見つめ、解り易い単語で私に説明をしてくれた。

手元には、夫が書いたであろう手術の同意書があった。
普段から几帳面で神経質そうな文字を書く夫だが、そこには、判読するのも難しいだろうミミズが這ったような文字が並んでいた。
それだけで、事の尋常さが解るような気がする。

病名「出血性胃潰瘍」 
結構な出血量だったのだが、処置が早く済み命に別条が無い事を知らされた。
しかし、今後一週間は入院が必要だとのこと。
病状については勿論な事、他に今後の食事について、後で栄養士さんが話をしてくれる事などいろいろなの対応策などを話してくれた。

命に別条がない。この言葉を聞いただけで、心の底からほっとした。
夫を心配する気持ちは嘘じゃない。
憎たらしいと思う反面、自分の後ろめたさだけではない『情』というのもが存在しているのは確かなのだ。
気がついたら、私は頭を下げていた。
無意識だったが、小暮医師が席を立ったところで私は頭を下げていたみたいだった。

看護師さんに促され部屋を出ると、先程の光景が頭に浮かんだ。
夫の病室に戻るべきか、待合室に行くべきか。
行くと返事はしていないけれど、行かなくてはならないだろう。
何を話しつもりなのかも、想像すら出来ない。

気がついたら、目の前を歩く看護師に声を掛けていた。

「待合室はどこにありますか?」と。

教えてくれた待合室は、夫がいる病室を通り過ぎた廊下の先。
冷えた廊下に靴音が響く。
まるで罰を受けにいく心境のよう。

行きたくないと思いながらも、私はとうとうその部屋の前に辿り着いてしまった。
俯いていた彼女は私を気配を感じたのだろう。
明けっぱなしの待合室に足を踏み入れる前に彼女が顔をあげ、椅子から立ち上がり深くお辞儀をした。
それに返すように私も深くお辞儀をすると身体の中の血液が逆流してくるようだった。
それが何だったのか解らない。
だけど、この人はただの上司ではないということなのだろう。
私の頭の中で警笛が鳴り響く。
冷静になりなさい、と。

アイボリーの机は元は白だったのかもしれない。
先程の部屋とはうって変わって日差しの入る明るい部屋。
まだらに日焼けをしているだろう、ねんきの入った机に目を落とし、ゆっくりと椅子を引いた。
まだ顔は見れなかったが
「先程は失礼しました」
かろうじて出た言葉に、彼女も同じ言葉で返してきた。

彼女から何か言われる前に言いたかった夫の病状を、私は医師の言葉通りに連ねる事にした。

「ここまでお付き添い下さりありがとうございます。今しがた先生に病状をお聞きして参りました。聞いて頂けますでしょうか」
自分の言葉がおかしいのは十分承知だ。

彼女は、静かに一言「はい」と口にした。

「出血性胃潰瘍だそうです。命に別条はないそうです」
ここまで言うと、目の前の彼女は目元を緩めた。じわりと浮かぶ涙は見過ごさなくてはいけないようなそんな気持ちになった。本当に必死で耐えているように見えたから。私の前では泣いてはいけないと思ったのかもしれない。

経過観察も含めて一週間は入院する事になるだろう、きっと会社にもご迷惑を掛けてしまう事も告げた。
そこで、彼女は上司らしく――承知いたしました――と大きく頷いた。
一通りの説明をすると、今度の聞き役は私の番になってしまう。
机の下できつく握り拳を握ったのは、相当な覚悟がいったからだ。
解っていたとはいえ、目の前で夫の不倫を告げられるのは穏やかな気持ちで迎えられるものではないのかもしれない。
例え自分が、その道に足を踏み入れようとしてさえもだ。
酷い妻だと思う。いや、きっとこの人と夫は私が妻だと思っていないのかもしれない。
私の握りこぶしは更に力が入る。
私が話し終えても、彼女は下を向き、何かを耐えているようだった。
涙ではない、何かを。

ひとしきりの静寂の後、目の前の彼女、唐沢さんは、まだらに変色した机に頭をつけた。

「申し訳ありませんでした。本当に申し訳ありませんでした。全ては私のせいなんです」
壊れたおもちゃのように、何度も何度もそういう唐沢さんの姿を見て、胸がちくりとする。

「顔をあげて下さい」
それは自分にもある罪悪感からかもしれないけれど、そう言わずにはいられなかった。
夫の病状を言った時、耐え続けた涙なのに、今は堰をきったように唐沢さんのワンピースに零れ落ちる涙。

申し訳ありませんでしたの先の言葉を初めて聞きたいと思った。