迷いみち

32話
ガタガタと響くガラスに頭を寄りかからせた。
いろんな事がありすぎて、何をどう考えたらいいのか解らなかった。
アラケンの運転する車に乗ったのは今日の事よね……。
電車に揺られ一人で家に帰る道すがら、一日の出来事が走馬灯のように駆け巡る。

これは罰なんだ。私が家族を裏切ろうとした罰なんだ。

どこをどう歩いたのか、気がついたら家の前にいた。
帰巣本能はあるらしい。
何の気なしにポストに手を入れると、一通の封筒。
宛先も差し出し人もないその封筒はきっとあの人、アラケンに違いない。
玄関に足を踏み入れると直ぐにその封筒を傾けた。
中からは、小さなキー。
そして、紙の切れ端。

「駅前のコインロッカーに鞄を入れておいた。南口を出てコンビニ隣のコインロッカーの22番。何かあったら遠慮なく電話しろよ。お大事に」

手帳のメモを破ったのだろう。
急いでいたのか書きなぐったような文字。
最後の『お大事に』の文字に胸が締め付けられる思い。
もう泣いてもいいよね。
誰に告げるでもなく一人呟くと、全身の力が抜けたように膝が落ちた。
幸い今日は子ども達二人ともいない。
気の済むまで泣いてもいいよね。
何に対しての涙かなんて解らなかった。
あまりに理由がありすぎて。

どれくらい泣いたのだろう。泣き過ぎて頭が痛かった。
ハンカチは最早役に立たず、ポーチに入れたティッシュも使い果たした。
取り敢えず、明日の準備だけはしなくてはだ。
その前にシャワーを浴びよう。
子どものように鼻をすすり、私は立ち上がった。
これからの事をしっかり考えなくてはなのだから。
頭では理解しているつもりなのだが、混乱している。

熱めのシャワーは少しだけ私を立ち直らせてくれたようだった。
脱衣所の鏡には、泣き腫らした目がうつるけど明日には引いてくれるはずだ。
元々目元は腫れぼったい私だから、もし、子どもが気がついてもちょっと寝不足で終わると思う。
それより、夫が入院したんだ。泣いてもおかしくはないのかも。
考えなくてはならない事が山積みのはずなのに、上手く思考が追いつかない。

その前にコインロッカーに行かなくてはいけないかも。
寝巻に着替える前に気がついた。
ラフなスカートとTシャツを見に纏い、駅前に向かう。
身なりなんて気にならなかった。
普段だったらここまで酷い格好でなんか出掛ける事はないのに。
知らぬ間に速足になっていたようで、指定されたコンロッカーの前に立った時には息切れを起していた。
ポケットに手を入れその感触を確かめる。
アラケンが入れてくれた鍵。
只のコインロッカーの鍵なのに手放すのが惜しくて両手で包みこんだ。

私のササクレだった心を癒してくれたのは他でもないアラケンだった。
でも、このタイミングで夫が倒れたと言う事はそれが私の運命と言う事なのだろう。
唐沢さんの話を聞いたからにはこれから何かが大きく変わる事は間違いないのだけど……

でも、一つだけ感じていた事がある。
どこにどう転ぼうと、私とアラケンの行く道はきっと一緒じゃないのだろうと。

あまりにもあっけなくコインロッカーが開き、旅行鞄には程遠い小さな鞄がぽつんとあった。

当たり前の事だけど、私の鞄しか入ってなくて。
何が欲しかったとかそういうのじゃない。
ただそれが、旅行の顛末なんだと思うと複雑な思いがしただけ。
大事に胸に抱え、来た時は反対にゆっくりと歩いた。

家につくと一度も開けなかった鞄から荷物を出した。
荷物と言っても、タオルや下着、化粧道具。
日帰りの温泉旅行なんてそんなもの。
あるべき場所に下着と化粧道具を戻すと、今度は反対にその鞄に荷物を詰める。

夫の下着にタオルに洗面用具。
複雑な心境。
忘れてはいけないのが、保険証。
今日は慌てて出てきて忘れた事になっているのだから。

する事を終えると、どうしたって浮かんでくるのは唐沢さんの顔だった。
しんと静まり返った部屋で、彼女の言葉を思い出した。

――子どもが欲しかったんです――
そう切り出されて、私は返す言葉が見つからなかった。

彼女は終始うつむき加減で淡々と話しだしたのだ。

仕事が好きで楽しくて仕方なかった。
若い時に恋人もいたが、仕事ばかりする彼女に愛想を尽かし離れていった事。
ある時、ふと寂しくなったと言う。
このまま一人で歳老いるのかと思うと只々寂しくなったと。
自分勝手な考えだと承知だが、自分と繋がりのある子どもが欲しいと願ってしまったと。
過去の事もあって、伴侶は望んでいなかった。
煩わしい旦那という存在は必要がないと思っていた。
幸い蓄えはある。

そんな時、目に入ったのが夫だったというのだ。
家庭を大事にする彼だったら、自分とは一線を置きながら自分の望みを叶えてくれるだろうと。
何より、彼の子だったら、優しい子が生まれるのではと思ったというではないか。

ここまで聞いてなんて自分勝手な。
なんて――。握ったままの手のひらは爪が食い込み、怒りの気持ちがこみ上げてきていた。
黙って聞いていた自分を褒めたいと思う程に。

夫はきちんと断ってくれたそうだ。当たり前だと思う。
だけど、彼女は意地になったらしい。
半年の懇願にとうとう夫が折れた。
それを聞いて私の心臓にガラスの杭を打たれたような衝撃が走った。
予想していた事とはいえ絶望という淵をみたような気がした。
それから後は何となく唐沢さんの言葉が落ちてくるのを辛うじて拾っているようなそんな感じだった。
でもそれをちゃんと覚えているのが不思議な感覚だった。

初めのうちは、本当に子種を落とすだけだったらしい。
何処に行くでもなく、ただその行為だけの関係。
セックスフレンドなんていうのにも程遠い。
高揚も気持ちもないセックス。
その場を楽しむなんて事も無かったと彼女は言った。
それは、夫の罪悪感からだろうか。
言われる筋合いじゃないが、夫は私達を真剣に大事に思っていたと言う唐沢さんに悪意を感じた。
私は黙っていたのではない。
言葉が見つからないだけで、どうしてこんな事を聞かなくてはいけないのかという気持ちでそこにいたのだ。
残酷な事に私の足は動かないまま、唐沢さんの話しを聞き続ける事になった。

彼女はいい、今まで思っていただろう罪悪感を私に話す事で、謝る事で、和らげるのだから。

彼女の願い虚しく、時が過ぎても子どもは授からなかった。
そんなに人生は甘いものじゃないらしい。
もう諦めようと彼女が口にした時、初めて夫に出掛けようと誘われたという。
彼女曰く、夫は同情したのではないかと。
気分転換を兼ねて、温泉にでも行ったら子どもが出来るのかも、と言われたそうだ。

小さな気分転換を一回、二回と重ねる毎に夫との関係も変化していったらしい。
彼女のマンションでお茶を飲むようになり、食事をするようになり、下着や洋服が彼女のタンスに増えていったと。

話しを聞いているうちに、まるで人ごとのような気がしてきた。
彼女に対する憐れみ? そうじゃない。女としての同情? いやそれも違う。
無関心になりたかったのかもしれない。
これは夢だ、私には関係の無い事だと。

憎しみはある。溢れんばかりに。
こんな事を聞かされるのはおかしな話だと解っているのに。
だけど、私は彼女に話を辞めさせる事が出来なかったのだ。
足が動かなかっただけではないのかもしれない。
聞きたくないと思いつつも真実を聞きたいと思ってしまったのかもしれない。

相槌を打つ事なく、まだらな机に視線を馳せ、黙って聞いている私がいた。
ただ一つ、爪が手のひらに食い込んではいたけれど。

そして、彼女は言ったのだ。

「今回の旅行が最後だったんです」
と。