迷いみち

33話
「最後だったんです」


その言葉を聞いて時初めて私は顔を上げ、彼女の顔を見た。
戸惑いながらも意を決した顔のようだった。

「6か月になります」
そういって愛おしそうにお腹を撫でたのだ。
元々細身であっただろう彼女は6か月と言えどお腹の膨らみは目立たなかった。

彼女の手を目で追いつつ、激しく波打つ心臓の音を全身で感じていた。
これは夢じゃないよね? と。

「本当に申し訳ありませんでした。この子は私一人で育てます。認知もして下さらなくて結構なんです。私は身勝手な女なのです、奥さんやお子さんには本当に申し訳なくて……悪い事だと思いつつ、止められなかった、梅沢さんの人生をめちゃくちゃにしてしまった。本当にごめんなさい、今回の病気もきっと私のせい――です」
そこで一旦言葉を区切った彼女は、もう一度私に向かって頭を下げた。

「産ませて下さい。この子の母親にさせて下さい。この子を……」

言いたい事は山ほどあったし、聞きたい事だって。
彼女も私に罵られる事は覚悟していたのだろう。
話し終えた後は唇をぎゅっと閉じ、零れる涙を堪えようとしながらも目を見開いて、必死な顔で。
彼女は既に母親の心境だったのだと思う。

だけど、そこまで聞かされても何も言葉が出てこなかったのだ。
そう言葉が出てこない。
カラカラに乾いた喉が張り付いて、声が出なかったのだ。

どのくらいの静寂があったのだろう。
心臓のあたりに手を置いて、私は大きな深呼吸をした。

「貴方に言いたい事は山ほどあるわ、でも混乱していて言葉が見つからない。これだけは言える――もう何も聞きたくないから」
視線は自然と彼女の腹部へと向かってしまう。
夫の子どもを身ごもるなんて、考えられなかった。
だけど、彼女から子どもを取り上げるなんてそんな事出来るはずがなかった。
自分に恭平と晃平がいるから尚の事。
子どもの存在の大きさは――。
そんな子どもを裏切って他の男に心を動かしてしまう私が言えた事ではないのかもしれない。

彼女はどうするつもりなのだろう。
そうは思うが聞けなかった。

彼女は何度も頭を下げ、待合室を出ていった。
目眩がしそうな身体をあげて私もその後を追うと、夫の病室の前で足を止める彼女がいた。
それは数秒の事だったのだろう。でも私には長い時間にも感じられた。

私は彼女の後姿から目が離せなかった。
全身で夫を心配しているだろう彼女の姿を。

彼女が立ち去った後、私は夫のベットの横にある丸椅子に腰を下ろした。
まだ目が覚めていないようだった。

夫の顔を見つめていると、複雑な思いだ。
何をしているのよ。
中途半端な事してないでよ。
そう罵ってやりたい。

『胃潰瘍になんてなる前に』その続きの言葉をのみ込んだ。
何をするわけでもなく、ただじっと丸椅子に腰を下ろす。
陽が落ち始めた頃、やっと夫が目を覚ました。
薄眼を開けて、夫が放った最初の言葉は他でもない
「純」
という私の名前だった。
彼女の名前ではなくて、私の名前。
何でなの? なんで私の名前?

「生きてるんだな。俺」

本当に馬鹿だと思った。

結局病室で、唐沢さんの事は何一つ話せなかった。
話さなかったという方が正しいかもしれない。
夫も何も言わなかったし、私も何も言わなかった。
きっと、夫は解っていたはずなのに。
私が彼女の存在を知った事を。

そこまで、回想をして私の意識はぱったり途切れた。
疲れ果てた私は眠りについたのだ。

翌朝、私はいつもの目覚ましの音で目が覚めた。
昨日はいろいろな覚悟を持って止めた目覚ましの音。
一夜明けて、全く違う思いと共に目覚ましを止めるだなんて思いもしなかった。

視線の先には、荷物が詰められた鞄がある。
昨日の朝は私の荷物、今日の朝は夫の荷物。

これは何の皮肉なのだろうか。

昨日から何も食べていないのに、全くお腹が空かない。
キッチンでカフェオレを作るけど、そんなに飲みたいと思う事もなく。

頭の中で今日の段どりを考えた。
銀行に行ってお金を降ろして、それから――。
そうだ、夕方に家にいないかもしれないから、恭平と晃平にも連絡をいれなくてはいけない。

時計の針は規則正しく音をたてる。
主は大変な事になっているのに。

『お前はいつでもマイペースだよな、時計みたいに』
そういったのは夫だった。

そんな訳ないじゃない。そう見せてただけなのだから。
昨日から私の鼓動はジェットコースターのように緩急をつけ忙しいのに。
マイペース? こんな事があってマイペースで居られると思うの?

誰もいないリビングで冷たくなったカフェオレを涙と共に飲み込んだ。

今日か明日か明後日か。
夫と私にはまだいくぶんの時間がある。
病気が病気なだけに激しい言い争いは避けた方がいいのかもしれない。
本当にずるいわよね。

本当にずるい――。
夫も唐沢さんもそして私も。

「最後だったんです」
そう言った唐沢さんの声が何度もこだまする。
子どもが出来た事で夫の役目は終わったと言う事なのだろうか。

お腹に子どもがいる事を知りつつ別れの旅行に出たと言う事なんだろうか。
きっと彼女も混乱していたに違いなかったが、その言葉の意味は語られる事はなかった。

私が気が付いてないとでも思ったのだろうか。
夫は、何食わぬ顔でこの家に戻るつもりだったのだろうか。

どうしたら、いいのか全く解らなかった。
自分の気持ちさえ解らなくなってきた。

出しきったと思った涙がまた一筋流れ落ちた。