迷いみち

34話
自分がどんな境遇にあろうと、朝は来てしまう。
頬に残った涙のあと。
鏡に映る自分の顔は、お世辞にも元気そうなんて言えないような、やつれた顔。
少しでも腫れた瞼をましにしなくてはと、冷水で顔を何度も拭った。
家を出る前、夫が入院した事を晃平と恭平にメールで連絡した。
玄関に鍵を差し込むと、鞄のポケットに入れた携帯が鳴り始めた。
恭平からだった。
ここ数年諦めからか冷めた視線で見ていたようにも思えたのだが、それは表面的だけだったようで、その声は震えていた。

メールで知らせたように命に別条はなく、来週かさ来週には退院出来る事を告げると、電話越しだったけれど、ほっとしたのを感じとれた。
そして、恭平からの電話を切ると直ぐに晃平からも着信が。
恭平に伝えたままにその事を告げると、晃平もまた安堵したように電話を切った。
私は再び、携帯を鞄のポケットに入れると駅への道を急いだ。

駅に着き、券売機の前に立つとふと考えた。
一日分の往復券を買うべきなのか、それとも回数券を買うべきなのか。
後ろに人が来たので、券売機の前から数歩ずれて駅名の書かれた料金案内板を見上げるふりをした。
私一人の往復を考えると、五日分。
恭平や晃平も来るかしら? と。
暫し迷った末に、窓口で回数券を購入した私。
切り取った乗車券を手に、残りを丁寧に畳んで財布に入れると複雑な気分になった、後何回この電車に乗る事になるのだろうかと。
電車の中は思いのほか空いていて、車両の端に座る事が出来てほっとする、何せ長時間揺られなくてはならにのだ。
膝の上に小さな鞄を乗せ、軽く目を瞑った。

手術したばかりの夫を転院させる事は難しく、結局、家から遠く離れた病院に入院する事になっていた。
夫が傍にいて欲しいのは、きっと私じゃないのだろう。
虚しいなか、それは事実であろう。
私は? 私はどうなのだろう。
夫の傍にいたいと本心から思える?

正直自分の気持ちが見えなかった。

どう考えても、夫の裏切りとしか思えないのだから。
でも愛情は限りなく薄れているとはいえ、夫に対する情はあるのも確かだった。
昨日、ベットに横たわる夫を見て、自分の認識している夫より、随分と痩せていた事に今更ながら気がついた。
そして、何より、夫が呼んだ私の名前。
懐かしい響きだった。
名前なんて呼ばれたのはいつ以来なのだろうかと思うほど。
その声はとても切なく私の胸に響いたのだ。

この先、私と夫の間に未来はないと頭では思う。
昨日から何度も考えた事がまた浮かんできた。
唐沢さんは、もう終わりと言ったけれど、果たして本当に終わりだったのだろうか。
こんな事がなければ、私は唐沢さんが妊娠した事を一生知らずにいたかもしれないとも思った。
彼女の話しだと、夫は私とは別れる気が全くないと言いきったと言うのだから……

彼女の本心はどう思っているのだろう。
初めから結婚は望んでいなかったと言った彼女。
子どもさえ出来ればいいと願った彼女。
確かに初めはそうだったかもしれない。
けれど、今は?

きっと彼女の家には夫の私物がいくつもあるはず。
きっとじゃない絶対だ。
夫としてではなく、子どもの父親としての夫を欲しいとは思わなかったのだろうか。
もしかして、将来の――。

そこまで考えて、何て馬鹿な事を考える。

私は、夫無しで生きていく覚悟が出来ているのだろうか。
確かに存在していた、別れの予兆。
けれど、いざその時になると戸惑うものなのかもしれない。

窓にあずけていた頭を起こすと、反対側の窓から見慣れぬ景色が消え去っていく。
昨日も通ったはずのその景色には何一つとして記憶しているものはなく。
この現実が幻だったらいいのにと、願う私がいた。