迷いみち

5話

「はい、母さんこれ」
そう言って晃平から手渡されたのは家庭訪問の予定表だった。
もうそんな時期なのね。
カレンダーに日付をチェックする。来週の金曜日か、ということは。

あいつがうちに来るのか。
晃平が目の前にいるのに思わず口にしてしまったらしい私。

「あいつって?」
晃平が私の顔を見上げていた。

悪い事をしたわけではないのに、妙に心臓が煩かった。
晃平には、母さんのお友達が来るんだと嘘をついてしまった。
晃平はそんな私を少しも疑う事なく

「友達ってあの麻里さん?」
私があいつだなんて呼ぶ友達は麻里くらいだからな。
上手い具合に勘違いをしてくれた晃平に
「そうだよ、金曜日の夜に遊びに来るって言ってたよ」
って子供相手に嘘の上塗りをしてしまった。
晃平はいうと麻里が来るのが嬉しかったらしく
「やったー」
とはしゃいでしまった。
麻里がというよりは麻里の持ってくる少し高級なお菓子が目当てだとは思うけれど。
こうなりゃ本当に誘わなくちゃだと考えてしまった。
ごめんよこんな母さんで。と心の中で晃平に侘びをいれた。

何となく恭平の帰りをそわそわして待ってしまう。
何にそわそわしているのだか、そんな自分に苦笑する
だいたい学校は兄弟のいる家に配慮して同じ日に予定してくれているはず。
だから、金曜日だとは思うけれど。

「お母さん、今日はみっちゃんと約束したから、公園に行ってくるね。」
晃平の声に我に返った。

「暗くなる前にちゃんと帰ってくるのよ。」
私の言葉と同時に晃平は家を飛びだした。

晃平から手渡されたわら半紙を手に、カレンダーに印をつけた。
金曜日か……。

洗濯物を取り込んでいると、玄関を開ける音が聞こえた。
帰ってきた。

手早く洗濯物を取り込み恭平の元に。
恭平はランドセルもおろさぬまま、ちゃっかりテーブルの上にあるお菓子を頬張っている最中だった。
クッキーを口に頬張ったまま
「ただいま」
とばつの悪そうな顔をしている。

「お帰り。まずはランドセルをおろして渡すもの渡してね。」
いつもだったら、”こらっ”と怒るはずの私。
恭平は不思議そうな顔をしながら、ランドセルをおろしていた。

「はい」
恭平に家庭訪問の予定表を渡された。

やっぱり金曜日だった。
それも一番最後の訪問だ。
果たして、彼は私の事を気がつくだろうか?
そんな事を思ってしまった。

私が怒らないのを良いことに、恭平はまたクッキーに手を伸ばした。
「こら、調子に乗らない。宿題やってからにしなさい。」
やっぱり私の口調は穏やかだった。



恭平の担任が嘗ての同級生だと分かったその日。
旦那にその話をしようと思っていたのに、生憎旦那は突然の出張で2日ばかり帰ってこなかった。
内緒にするつもりなんて、これぽっちもなかったのに、タイミングというかなんと言うかその話は出来ないままになっていた。

そうして、日々が過ぎていき、今日は金曜日。
いつもよりも、少しだけ丁寧に掃除をして、少しだけお洒落をしてその時間を待っている。
家庭訪問ということで今日は短縮授業。
子供達は、先生が家に来ることが恥ずかしいのか、とっとと遊びに出かけてしまった。

晃平の担任の先生は時間通りにやってきた。
ベテランの先生だけあって、良くみている。
まだ、担任になって1月ちょっとというのに、晃平の性格をよく理解して下さっていた。
少し恥ずかしがり屋だという事、口下手で思っていることを上手く伝えられない事。
先生は根気よく話を聞きますからと言って下さった。
勉強の面などの不安なことも聞いて貰えて、あっという間の時間。
先生は次の訪問先に行くために深くお辞儀をして帰っていった。

何度やっても緊張する家庭訪問。
玄関先で大きく深呼吸した。

リビングに戻って時間を見た
後、2時間か。

ソファに腰を掛けて、あの頃の自分を思い起こした。
毎日真っ黒になるまで外で遊んでいたあの頃を。
ゲームなどが無かった当時、男の子も女の子も関係無しに外で遊んでいた。
アラケン。新井健一を縮めてみんな彼の事をそう言ってたっけ。
今日の晩は久しぶりに麻里が来る事になっている、そう晃平に言ってしまった為に変えをかけざる負えなかったのもあるけれど。
今日はアラケンの話で盛り上がるんだろうなぁ。
そんな事を思いながら、パソコンを立ち上げた。
掃除も大丈夫だし、子供達もまだ帰ってこないだろう。
昨日の続きを読み始めた。

ピンポーン

初めは何度も時計が気になりチラチラと見ていたものの、途中から夢中になりすぎていたらしい。
すっかり、訪問予定の時間になっていた。
慌てて電源を切り、手で髪を撫でつける。
パタパタとスリッパをならし、玄関の扉を開けた。

「お世話になります」
そう言って真直ぐな姿勢から腰を曲げてお辞儀をしたアラケン。
あの頃の面影は……。
そんな事を思ってしまってすっかり挨拶するのが遅れてしまった。

「こちらこそ、お世話になります。恭平の母です」
お辞儀をして、スリッパを促すと

「ではお邪魔します」
そう言って我が家に上がってきた。
アラケンが家に来るだなんて、不思議な感じだ。

リビングのテーブルに向かい合わせで座っていると教室のあの頃を思い出して何だかくすぐったい。
心の中では気づかれませんようにと思う気持ちと、気がついたら面白いだろうなという気持ち。そんな2つの気持ちがせめぎ合っていた。
相当喉が渇いていたのだろう、出したお茶を美味しそうに啜っている。
恥ずかしそうに
「本当は、頂いてはいけない事になっているのですが、すみません、どうにも喉が渇いてしまって」
そういって笑った。
その笑い顔は、私の知っているアラケンそのものだった。
私は、もう一度急須にお湯を入れ、湯呑茶碗に熱い茶を注いだ。
「遠慮しないで下さいね」
自然と笑みが零れていた。

恭平の普段の様子を説明して、学校の様子を聞く。
それは、毎年繰り返される家庭訪問の様子。
やっぱりというか、何というか。
「恭平君は、クラスのムードメーカーです。ちょっとお調子者ですね」
そんな言葉。
物凄く恥ずかしい。
だけど、気持ちの素直な良い子ですと褒めて貰い一安心。
忘れ物だけは注意して下さいと最後にがっくりする一言を頂いた。
昔はあれだけ、ポンポンと言い合っていただけに、知らない人のように敬語で話しているのは何だか別人と話しているようだった。
アラケンがちらりと時計を見て、立ち上がった。
「ではそろそろ」
最後までそんな調子だったから、気がつかれなかった。
そう思ったのに……

廊下を歩くアラケンから
「恭平君、あの頃のお前にそっくりだよ。お調子者でうっかりもの。忘れ物とかするとかな」
小さい声だったけれど、はっきり聞こえた。

前に進もうとした私の足が宙で一瞬止まり、スローモーションのように床に落ちた。
「気がついてたの?」
勝手に口が動いていた。

「当たり前だろ、初恋の人なんだから」
そんな冗談めいた一言。
我に返って、前を向くとアラケンはもう靴を履いてこちらを見ていた。
「そんな顔するなって、何年前の事だよ。俺だって担任になった子供の親にどうこうするわけないだろ? 聞き流せよな、じゃあお邪魔しました」

来た時とは違って、お辞儀ではなく軽く手をあげ玄関から消えていったアラケン。
何だか衝撃が大きすぎて、見送る事さえできなかった私。

まるで、小学生に戻ったかのよう。
初めて告白をされた時のように心臓がドキドキしていた。

初恋かぁ

廊下の真ん中で一人呟いている私がいた。